俳句的生活(33)-八木重吉ー

迂闊なことですが、筆者は南湖院を調べる前までは、この詩人について名前すら知っていませんでした。本稿を記するにあたり、「秋の瞳」という彼の生前に唯一出版された詩集と、70歳を越した夫人が書かれた「琴はしずかに」という本を読んでみました。心がデトックスされた思いに今なっています。

八木は明治31年の生まれ。7歳年下の登美子夫人とは、大正11年、重吉25歳、登美子18歳の時に結婚します。一男一女に恵まれますが、29歳で結核となり、東京で高田畊安の診察をうけ、大正15年5月に南湖院に入院することになりました。南湖院の1日の入院料は、二人部屋の3円から特別室の8円50銭までと幅あるものですが、当時の1円が現在の5000円としますと、八木の入った二人部屋でも、現在価格で1万5千円となり、中学教師であった重吉には負担の重いものでした。そこで十間坂に別荘を借り、大正15年7月、一家をあげて移転、自宅療養に入りました。南湖院からは、副院長の自宅が借家に近かったこともあり、副院長夫妻が、一日おきに交代で往診に来てくれたそうです。南湖院に入院した時のことを、登美子夫人は「琴はしずかに」の中で、次のように綴っています。

「五万坪の松林のなかに各々の病棟は離れて建てられ、長い廊下がつづいていた。八木の入った病室は海に近く、波の音が聞え、窓から松がよく見えた。淋しい瞳で見送りながら、「桃子が待っているから早く帰れ」という。淋しがり屋の八木を一人残してゆくことをおもうと胸が張り裂けるようであった。」

昭和2年、療養の甲斐なく、八木は30歳の若さで亡くなります。登美子夫人は23歳でした。二人の子供も、昭和12年と15年に結核で亡くなります。昭和16年から19年まで、登美子夫人は南湖院で住み込みの事務員として働きます。ここにも畊安の人を大切にする気持ちが働いています。登美子夫人の生きがいは、戦争中も消失させることなく持ち歩いた重吉の詩の原稿を詩集として出版することでした。これは、高村光太郎を始めとして多くの人の助けを得て、戦後実現することになります。夫人は昭和22年に詩人の吉野秀雄と再婚、平成11年、鎌倉で94歳の生涯を閉じました。重吉の碑は、らいてうと同様に、高砂緑地に立てられています。添付の写真がそれです。

南湖院で療養した人は、児童文学の坪田譲二、大菩薩峠の中里介山などなど、まだ沢山いますが、十分な資料が入手できないので、次回からは別のテーマでブログを続けていくことにします。

高砂の小山の石碑秋の蝶

八木重吉碑(1)
高砂緑地の八木重吉の碑
八木重吉碑(2)
同、碑
八木夫妻
「琴はしずかに」より。二人のツーショットは、大正11年、横浜市本牧にて
八木の詩(琴はしずかに)
「琴はしずかに」より