俳句的生活(32)-平塚らいてうー

数年前、広岡浅子をモデルとした「あさが来る」というNHK朝ドラで、主人公が設立した女子大(日本女子大学)で、平塚明(はる)という学校の教育方針に反抗する女性が登場するのを見た。軽く”あさ”にいなされるのだが、後の”らいてふ”の二十歳のころのエピソードである。

明と南湖院との関係は、既にこの頃より始まっている。畊安がこの女子大で校医をしていたことによる。更に、明の姉もこの女子大の学生で、結核の診断を受けた姉は当然のように、南湖院での療養生活に入ったのである。

明が22歳の時、漱石の弟子である森田草平と、日光塩原で心中未遂事件を起こした。この年2月に初デートしてわずか1か月後のことである。男は肉体関係を求め、女はそれを拒絶する、そうした状態での未遂事件である。事件後、森田は漱石宅に匿われ、漱石が平塚宅に出向き、森田との縁談を申し込むのだが、明はそれを拒否し、あろうことか再会した森田に、再度の心中を求めるのである。明は事件を劇化したかったと解説されているが、このあたりの心理は、凡庸な筆者には全く理解出来ないところである。

事件の顛末を森田より聞き取った漱石が書いたのが「三四郎」である。里見美禰子というヒロインが三四郎を翻弄するが、それは漱石が明のなかに、女性の中の最も女性的なものとして、アンコンシャス・ヒポクリット(無意識の偽善)なるものを見出し、それを投影させて創作したのが美禰子だからである。このころの明に最も近い女性は、虞美人草の藤尾ではないかと筆者は思っている。

三四郎のなかでは男たちは盛んに、イプセンのような女 ということを言っている。「人形の家」が日本で初演されるのは、三四郎が書かれた3年後のことであり、同じ年に青鞜は創刊された。明が「らいてう」という筆名を使い始めたのはこの時からである。

らいてうが、伴侶となる画家の奥村博と出会うのも南湖院においてである。らいてうは独歩とは異なり、茅ヶ崎と南湖院を感謝の念をもって見ていた。以下は、「元始女性は太陽であった」からの一節です。

「茅ヶ崎海岸の景色は日本一だと、南湖院の高田院長がいつも自慢するように、ひろい砂浜と夕焼雲の美しさは、そのころの湘南海岸でも、ひときわ美しい大きな眺めでした。、、、高田院長は破格の厚意で、医療費を、奥村の画と引き換えにするよう申し出てくれました。奥村は、南湖院の全景を、描き出しました。当時、好ましくない世評を浴びていたわたくしたちに示された、高田院長のこの温情は、物心両面の励ましとなって、いつまでもふたりにとって忘れがたいものです。」

湘南の戸外静臥やらいてう忌

南湖院での療養
「茅ヶ崎市史ブックレット5南湖院」より

らいてう碑
高砂緑地にある「らいてう」の碑

1st Issue of Seito.jpg
高村智恵子(明治19年-昭和13年) – http://livingworld.groups.vox.com/library/post/6a00fad6ac79ec00050110185ea149860f.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

雑誌、青鞜、創刊号(1911年9月)の表紙。長沼智恵子 (後の高村智恵子)作。