俳句的生活(25)-高砂の明月ー

筆者はつい最近まで、高砂を「たかさご」とよむものとばかりに思っていた。弁天小僧の、浜の真砂(まさご)と五右衛門が~のように、砂を「さご」とよませて「すな」を意味するのが日本語と思っていたのである。ところが茅ヶ崎の高砂は「たかすな」である。「たかすな緑地」と言わなければ、茅ヶ崎人ではないことになってしまう。

高砂は確かに砂地である。それは高砂緑地に入ってみれば一目瞭然である。園内の遊歩道には砂が溢れている。園内の樹木は、砂地を好む松がほとんどである。地面はよく清掃されていて、砂地が保たれているのである。

高砂の風情は、今では高砂緑地に集約されているのだが、昔はどうであったのだろうか、という興味が湧き、またもや茅ヶ崎図書館のデジタルライブラリを調べてみたところ、2件ほど見つけることが出来た。一つは「明治末期の茅ヶ崎駅周辺家並図」というものである。図が小さいので、指で拡大して見てほしいのだが、おもしろいことがいくつかある。駅北口では、今のように円蔵に抜けるバスの通る道はなく、一里塚通りとエメロード通りだけである。東海道は一里塚から十間坂まで、松並木が続いている。南口には、高砂という結構広いエリアがあり、砂地と松が描かれている。もう一つは「湘南茅ヶ崎東海岸高砂分譲地」というもので、今では羨ましくなるほどの広さの区画が分譲されているのである。駅周辺は畑も相当の割合を占めている。別荘地時代の茅ヶ崎はそういうところであったのだ。

別荘地として茅ヶ崎で最大の広さであったのは、平和町にある九代目市川団十郎のものである。その広さはなんと6000坪のものであり、長方形に換算してみると、200m*100mとなる。江戸の大名屋敷でいうと、5万石程度の大名の上屋敷に相当する。川上音二郎は団十郎を慕って高砂に移住したそうで、団十郎の死に際しては、彼が葬儀を仕切ったとのことである。

ラチエン通り沿いの松ヶ丘にも緑地があるが、ここの樹木は照葉樹がほとんどで、松はわずかにあるだけである。土が腐葉土化してくると、松ではなく照葉樹や落葉広葉樹がはびこってくるのだ。高砂緑地がいつまでも高砂の風情を残すためには、松の落葉の除去を怠ってはならないのである。

高砂の月をとってと坊の泣く

茅ヶ崎八景ー高砂ー
明治末期の茅ヶ崎駅周辺
茅ヶ崎市立図書館郷土資料デジタルライブラリーより引用
明治末期の茅ヶ崎駅周辺家並図

高砂分譲地
茅ヶ崎市立図書館郷土資料デジタルライブラリーより引用
湘南茅ヶ崎東海岸 高砂分譲地
平和町にある団十郎山のいわれ
同、団十郎山の碑