俳句的生活(261)-蕪村の詠んだ京都(17)子規による評価-

蕪村は子規によって評価され、芭蕉と並ぶ俳聖として現代に至っていますが、芭蕉の句と対比した『俳人蕪村』という評論では、芭蕉よりもむしろ高く評価されています。冒頭の一節には、芭蕉は実に敵手なきか。曰く、否。と鮮明な一文が記されています。

子規たちが蕪村の句を集めた方法ですが、始めは類句集と呼ばれる題材別に分類して編集された句集で俳句を学んでいたところ、蕪村の句が散在していて、それがまた非凡なものであることに気付き、蕪村の句を徹底的に集めることにしたのです。その方法とは、子規が主催する会の席で、子規の弟子の内藤鳴雪が、蕪村集を得来りし者には賞を輿へん と宣言し、最初は戯言と思われたのですが、実際に数々の『蕪村句集』を探し出すに至ったのです。子規は 死馬の骨を五百金に買ひたる喩も思ひ出されてをかしかりき と記しています。このとき収集した蕪村の句は1400句で、現在判っている2800句の半分の量となっています。

蕪村句集(天明4年版)
蕪村句集(天明4年版)

子規は相当大胆に芭蕉の句を批評しています。我々にも馴染み深い句を挙げてみますと、

若葉

若葉して御目の雫ぬぐはばや  芭蕉
あらたふと青葉若葉の日の光  芭蕉

子規は、このような句は 皆季の景物として応用したるに過ぎず 即ち初夏という季節に添えただけのものとし、蕪村には 蕪村には直に若葉と詠じたるもの十余句あり。皆若葉の趣味を発揮せり として、

山にそふて小舟漕ぎ行く若葉かな  
蚊帳を出て奈良を立ち行く若葉かな
窓の灯の梢に上がる若葉かな

などを挙げています。より身近に若葉を置いているといえます。

五月雨

五月雨は芭蕉にも
五月雨をあつめて早し最上川  芭蕉
の如き雄壮なるものあり。蕪村の句また之に劣らず。として、
五月雨や大河を前に家ニ軒
を挙げています。この句は 「蕪村の詠んだ京都(10)」の中で私なりの対比をしている句ですので、そちらも参照してください。(こちらより)

このように子規は、蕪村の句を芭蕉と対比して、劣るどころか凌駕していることを、具体例で示したのです。『俳人蕪村』には、芭蕉の句は34句、蕪村はなんと10倍以上の412句が取り上げられています。子規は、『俳人蕪村』の終わりから二番目の「時代」という章で、俳句界二百年間、元禄と天明とを最盛の時期とす。(中略)天明の余勢は寛政、文化に及んで漸次に衰へ、文政以後復痕迹を留めず。と俳句界を俯瞰しています。子規の生まれ育った時代、俳句は宗匠俳句として地に堕ちていたことが窺われます。