俳句的生活(262)-蕪村の詠んだ京都(18)漱石の草枕ー

蕪村を発掘した正岡子規は、以後子規門を蕪村派と称するようになりましたが、子規自身は ”写生” を作句での基本としたので、皮肉なことに彼自身の句は蕪村調にはなっていきませんでした。そして子規以上に蕪村を憧憬し蕪村調の句を作ったのは、子規の盟友である夏目漱石でした。

漱石は松山に中学の英語教師として赴任中、東京に戻った子規に俳句を送り、子規は添削をして返すという関係でしたが、子規の返書は手厳しいもので、「君の俳句は写実ではない」といった難陳に対して漱石は、小生の写実に拙なるは、入門の日の浅きによるは無論なれど、天性の然らしむる所もこれあるべくと存じ候 と返事しています。漱石は子規の写生主義を承知の上で、自分の資質はまた別である、と述べたのです。

そんな漱石が蕪村に成り切ったかのごとく執筆したのが『草枕』です。漱石は松山で中学教師を務めたあと、熊本の第五高等学校の英語教師(教授)として赴任していましたが、同僚の山川信次郎(漱石の第一高等学校時代の親友)と、明治30年の暮れから翌年の正月にかけて二人で20kmの山路を歩いて小天温泉に行っています。草枕はこの時の経験をベースにした作品です。漱石は小天温泉では、「小天に春を迎えて」という前書きで 温泉や水滑らかに去年の垢 という句を作っています。

今回の稿を記すにあたり、改めて草枕を読み返してみました。「おい」と声をかけたが返事がないで始まる第2章がいわゆる ”峠の茶屋” の場面です。茶屋を切り盛りしている老嫗や馬曳きの源さんとの魅力的なやりとりがある章ですが、この中だけで4つもの句を、「余」である画工に詠ませています。

春風や惟然が耳に馬の鈴
馬子唄の鈴鹿越ゆるや春の雨
馬子唄や白髪も染めで暮るる春
花の頃を越えてかしこし馬に嫁

第一句の惟然(いぜん)とは、諸国を巡礼して廻った江戸時代前期の俳人で、こうした文人の名を句中に入れるところが蕪村調の所以です。とても写実句とはいえず、過去を詠んだ空想句となっています。蕪村にもこうした傾向は多くみられるのです。

易水にねぶか流るゝ寒(さむさ)かな  (明和6年 蕪村54歳)
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな  (明和5年 蕪村53歳)

易水の句は、秦の始皇帝を暗殺しようとした荊軻の、風粛々として易水寒し 壮士ひとたび去りてまた還らず を踏んだもので、そこに葱を配して生活感を出した句です。蕪村も漱石も古典通であるという共通点があったのです。

草枕のなかで漱石は17句を作っています。それが全て蕪村調となっています。漱石もそのことは意識していて、「花の頃を越えてかしこし馬に嫁」については、わざわざ虚子に、この句は几董調のものです、と書いて送ったほどです。几董(きとう)とは蕪村の第一の弟子で、蕪村なきあと夜半亭三世となった俳人です。

熊本から小天への20kmの山路には二つの峠があり、そのうちの一つには、峠の茶屋が復元されています。

峠の茶屋
鳥越峠の茶屋

夜遅く小天の温泉宿(草枕では那古井の宿)に到着した画工は、そこで那美という出戻りの女性と出会います。二人の間では盛んに ”非人情” という言葉が交わされるのですが、この非人情とは判り易い言葉でいえば、”脱世俗” ということです。画工は芸術は非人情のうちに存するとしているのですが、作品の最終では、憐み(人情)の表情をみせた那美をみて、漸く那美を描けるとしたのです。芸術には人情も必要と悟ったということでしょうか。蕪村の生き方は決して脱世俗ではなく、島原に通うなど、悠々と世俗人として楽しんでいて、草枕がテーマとしたことは蕪村には当て嵌まりません。画工も固苦しい観念から解放される一瞬を経験して作品は終了しています。

ところで那古井の那美には、前田卓(つな)という実在したモデルがいました。

前田卓
若き日の前田卓

前田家は肥後藩の士族で、膨大な土地を所有する家柄だったのですが、父親が自由民権運動にのめり込み、全ての財産を失うことになってしまいました。卓も日本に亡命していた孫文ら中国革命家たちを支援するという晩年を過ごすのですが、養子とした甥が一高に入り、作家として高名になっていた漱石の門に入ることが縁となり、漱石と再会しています。

前田家から人手に渡った小天温泉は今、那古井館という高級温泉宿として再建されています。非人情とはほど遠い雰囲気であるのは残念な限りです。

那古井館(草枕の間)

馬に嫁花に浅間の三筋かな  游々子