俳句的生活(261)-虚子と漱石の京都ー

「まだ居ます。すぐいらっしゃい。但し男世帯だから御馳走は出来ませぬ。御馳走御持参は御随意。」

これは明治四十年、京都下鴨の狩野亨吉方の漱石より、京都三条の万屋旅館の虚子に宛てた手紙です。この年漱石は東京帝国大学での教職を辞して朝日新聞に入社し、専属作家として六月より新聞連載を始めることになっていました。京都にはそのための取材旅行で、三月二十八日に入洛し、親友の狩野亨吉が借りていた家に滞在していました。小説の名は「虞美人草」です。一方虚子の方も小説「塔」の取材のために奈良へ赴く途中で、京都の宿に宿泊していたのです。この手紙を受け取った虚子は直ちに俥で下鴨の狩野の家に向い、この日と翌日、二人は山端平八茶屋や祇園一力に行っています。

ところで虚子の京都との関りは、彼が明治二十五年に三高に入学するところから始まっています。

三高正門
三高正門

彼の三高在学期間は学制改革のため二年となってしまったのですが、彼はこの間に下宿を五回も変えています。二回目の下宿の時、東京帝国大学を中退して日本新聞に入るという子規が京都に立ち寄り、二人で二里の道を歩いて嵐山へ行き、大堰川に船を浮かべて青雲の志を語り合っています。五回目の下宿では、一年遅れて三高に入学してきた河東碧梧桐が同宿することになり、下宿を虚桐庵と名付けたりしていました。この虚桐庵は三高の正門の前にあったものですが、当時の三高は現在の京都大学の時計台がある処で、下宿は現在の吉田南キャンパスを少し入った処にありました。虚子は京都をこよなく愛し、明治二十七年に京都を離れ、昭和三十三年に亡くなるまでの六十三年間に京都へは八十四回訪れ、延べ滞在日数は四百日に及んでいます。

一方漱石の京都訪問は四回となっています。一回目は明治二十五年の七月で、この時は子規と訪れ、足を延ばした松山では三高に入学する直前の虚子と初めて顔合わせしています。

愚陀仏庵
漱石の松山での下宿(愚陀仏庵)

虞美人草の執筆取材で訪れた明治四十年のものは二回目のものです。明治四十年四月九日、漱石は狩野亨吉ともう一人の親友である菅虎雄との三人で、高野川を北上し平八茶屋を通り越したところから比叡山に登っています。虞美人草の冒頭では次のように描かれています。

 「今日は山端の平八茶屋で一日遊んだほうがよかった。今から登ったって中途半端になるばかりだ。元来頂上までは何里あるのかい」
 「頂上まで一里半だ」
 「どこから」
 「どこからかわかるものか、高の知れた京都の山だ」

比叡山
高野川から見た比叡山

虚子が下鴨に漱石を訪れた四月十日は雨だったようで、漱石の日記には、平八茶屋(雨を衝いて虚子と車をかる。渓流、山、鯉の羹、鰻)と記されています。この日の客は、春雨のせいでか、二人だけのものでした。

平八茶屋
平八茶屋

虚子は漱石から、菅の案内でお寺ばかりを巡っていると聞き、「京都へ来てお寺ばかりを歩いてゐても仕方がないでせう。今夜都踊でも観に行きませうか」と誘っています。「都をどり」は、毎年四月一日ー三十日にかけて、祇園甲部歌舞練場で開催される舞踊公演です。この日二人は平八茶屋から虚子の泊まっていた万屋に戻り、ひと風呂浴び晩飯をすませてから花見小路を通って歌舞練場に這入っていきました。都踊とは東京奠都で寂れた京都を復興させるために、明治四年に博覧会が催され、その余興として企画されたものです。振付は三世井上八千代によるものでした。

都踊り
都踊り

偶然でしょうが、虞美人草の京都でのヒロインの苗字は井上となっています。京都の人口は幕末には三十四万であったのが、明治六年の国勢調査では二十三万に減少しています。明治四十年の時点では、琵琶湖疎水や水力発電などのインフラが整い、四十万人にまで回復していました。都踊を観た二人は、祇園の一力茶屋に向かっています。ここは大石内蔵助ゆかりの祇園屈指の高級料亭で、一見さんお断りでも有名ですが、虚子は三月に子規の俳句の弟子で実業家になっていた人に連れられて来ていて、出入りが出来るようになっていたのです。この夜漱石は下鴨に戻ることをせず、十三歳の舞子二人と虚子との四人で、一力の一間で眠っています。虞美人草では甲野さんと宗近くんが京都市中の茶屋で過ごす場面がありますが、虚子に連れられて行ったこの経験がなければ描けなかったことでしょう。漱石が京都に着いた三月二十八日は殊の外寒く、気象庁に残っている古い気温データでは零下三度となっています。この日のことを作品にした「京に着ける夕」では徹頭徹尾寒さをこぼしていて、作品は次の俳句で締められています。

 春寒の社頭に鶴を夢みけり  漱石