俳句的生活(259)-蕪村の詠んだ京都(15)雪ー

『蕪村全句集』には季題「雪」の句が40句掲載されています。これは「花」「月」「時雨」「梅」に次ぐもので、京都の土地柄を示したものと言えるでしょう。雪見を詠んだ芭蕉の句に、いざ行む雪見にころぶ所まで というのがあり、貞享4年(1688)芭蕉44歳、名古屋での作となっています。私は当初この句は江戸で作られたもので、”ころぶ” ということに違和感があったのですが、名古屋でのものと知り、納得しています。この「笈の小文」の芭蕉の句を踏んだ蕪村の雪見の句に、次のようなものがあります。

いざ雪見容す蓑と傘  (安永2年 蕪村58歳)

蓑(みの)と傘をつけて、さあ雪見に出かけようとする気持ちを、中句の ”容(かたちづくり)す” で表現した句です。蓑と傘で容姿を整えるというのが、なんとも洒落ています。

「花」を詠んだ句に、木屋町に宿泊した客人を訪うのがありましたが、「雪」の句にも、木屋町を詠んだものがあります。

木屋町の旅人訪(とわ)ん雪の朝  (安永6年 蕪村62歳)

木屋町は先斗町と河原町の間の繁華街で、西隣には高瀬川が流れています。

木屋町絵図

高瀬川は江戸時代の初期に、角倉了以・素庵父子によって開削された運河で、伏見で荷揚げされた物資を京都市中に運ぶものでした。高瀬川が開削されるまでは木屋町通りは巾1mの狭い道でしたが、開削後は大いに発展し、蕪村の時代には、料理屋や旅籠が並ぶまでになっていました。句は、そんな木屋町の旅籠に泊まっている大阪からの客人を、雪の朝に蕪村が訪ねたというものです。蕪村の家からは歩いて15分で訪ねていくことが出来ました。

高瀬川は鴨川から取水し、鴨川と並行して南に流れている川で、流水の速度は鴨川と同じです。二条から五条までの落差は9mあり、これは哲学の道沿いの琵琶湖疎水が、南禅寺から銀閣寺までの落差がわずか1.6mしかないのと比べて、割と急であることが判ります。従って江戸時代、高瀬川を上っていくのは、三十石舟と同じように曳行する必要がありました。

高瀬舟曳行の図

森鴎外の小説『高瀬舟』では、乗せているのは物資ではなく罪人となっていますが、人を乗せることがあったのかどうか、疑問に思います。


雪白し加茂の氏人馬でうて  (安永7年 蕪村63歳)

上賀茂神社では、平安の昔より、陰暦5月5日に神社の氏人(うじびと)により、競べ馬の行事が行われて来ました。蕪村は雪の降った日に社人に、この白雪の中を競べ馬の時のように、馬で駆け抜けてみよ、と詠っているのです。

加茂の競べ馬


夜の雪寝てゐる家は猶白し  年次未詳

蕪村の名画「夜色楼台図」の世界です。

夜色楼台図

筏士の蓑に打ち付く霙かな  游々子

保津川筏流し