俳句的生活(258)-蕪村の詠んだ京都(14)淀川ー

「旅を棲処」とした芭蕉と異なり、蕪村は53歳で讃岐から帰洛した後、亡くなる68歳までの間、遠方に旅をすることはなく、出かける処は近郊に限られていました。そんな蕪村でしたが、大阪には弟子や俳友が多く、画材を仕入れることからも、蕪村自身出向くことも多くなっていました。

当時、京ー大阪の交通は、淀川を上下する三十石船が利用され、京都の乗り場は伏見、大阪の乗り場は天満橋近辺となっていました。

伏見の乗り場
伏見の乗り場

船の運航距離は45kmですが、京都から大阪への下りは約6時間、大阪から京都への上りは下りの倍の約12時間かかっていました。下りは夜に出発し明け方に到着するというもの、上りは明け方に出発し夕刻に到着するというスケジュールとなっていましたが、その理由は、上りの船は、岸から綱で船を曳かなければならず、暗闇の中ではそれが出来なかったことと、上下する船が衝突するのを避けるため、川の交通を一方通行にしていたのです。運賃は上りが172文、下りが72文というもので、これを現在価格に直すと、1両=10万円、1両=4000文より、上りは約4000円、下りはその半分の約2000円というものでした。因みに相模川の馬入の渡しの渡船料は一回10文(250円)でしたから、これに比べると割安感があります。

三十石船
三十石船

この絵は広重が描いたものですが、三十石船の脇の小舟は、物売りの舟です。

みじか夜や伏見の戸ぼそ淀の窓  (安永8年 蕪村64歳)

夏の夜の未明に伏見を出船、短夜がはや明けそめ、しばらくすると戸を開き始め、淀まで来ると開けはなった窓から白々と朝日が差し込んでくる、という句です。

鍋さげて淀の小橋を雪の人  (安永3年 蕪村59歳)

淀は淀川三川と呼ばれる木津川・宇治川・桂川が合流するところで、そこから下流が淀川となっています。当然淀には大小の橋が多数架けられていました。そのうちの一つの小橋に雪が積り、鍋をさげた人が通っている、という生活感のにじみ出た句です。

源八をわたりてうめのあるじかな  (安永9年 蕪村65歳)

源八とは、天満源八町の渡し場です。近くの天満宮は大阪随一の梅の名所で、その梅を満喫しよう、という句です。橋の名が ”源八橋” という下男めいた名であることで、洒落て自分のことを ”あるじ” と表現した句です。

ところで余談ですが、二代目広沢虎造の浪曲に、「森の石松・三十石船」というのがあって、船中で石松が「江戸っ子だってねェ~、寿司くいねェ~、酒飲みねェ~」とやる三十石船は、大阪の天満から京都の伏見に上る船となっています。