俳句的生活(256)-虚子の詠んだ京都(22)京大三高俳句会ー

虚子の京都、いったん閉じたのですが、大事な項目を抜かしていたので、追加することにします。

虚子が三高に在籍していたことは、本稿で何度も触れてきましたが、そのことが縁となり、ホトトギスに投句をしていた京大生や三高生が創設した俳句会の設立大会や句会に、虚子も参加していたのです。20歳そこそこの後輩たちが設立した「京大三高俳句会」という名称の俳句会、その名前からも虚子は大いに惹きつけられたに違いありません。

京大三高俳句会の発起大会は、大正9年2月、京大の学生集会所で三高生の日野草城たちが中心となって行われました。学生集会所は東大路から吉田寮への入り口を入ってすぐ右側にあります。明治40年に作られたこの建物は、吉田寮ともども建て替えられることなく、現在に至っています。

京大学生会館
京大学生集会所


この時期の虚子は、碧梧桐たちの新傾向俳句に対抗するため、ホトトギスに雑詠欄を復活させ、関西でのホトトギスの地盤強化に努めていて、弟子たちが大学を基盤として俳句会を作ることは願ったりも叶ったりだったのです。大正3年には、決意表明ともいうべき有名な句を詠んでいます。

春風や闘志いだきて丘に立つ

この句は東京で詠まれたものですが、私にはこの ”丘” は吉田山に思えて仕方ありません。

大正9年5月、京大三高俳句会は京都八坂の円山公園で、虚子を招待しての句会を開いています。この時の様子は、大正9年6月号のホトトギスに、次のような報告記が掲載されています。

ホトトギス大正9年6月号ー1
ホトトギス大正9年6月号
ホトトギス大正9年6月号ー2
同上


この時の席題は「藤」、おそらく虚子が即席で決めたものと思います。この日、日野草城は急用で欠席、彼は2年前の18歳のときにホトトギスに初入選をしていて、その年、虚子にも面談しています。虚子はこのとき47歳、若い後輩をみて、明治25年に19歳で京都に上がって来た自らを重ね合わせたに違いありません。

藤の根に猫蛇相搏つ妖々と

この句は 下五の ”妖々と” が格別の妖しさを醸し出しています。ホトトギス6月号には、この句の他に、虚子先生作句として、次の8句が掲載されています。

戻り馬の後脚長し藤の阪
銀閣の後ろの山に藤ありしや
山主の子が初山に藤の花
たゝへ登りし藤見失ひ戻り道
咲きそめて藤現はれぬ向う山
藤に降る雨明るさよ庭電気
涓々の水石ぬらす藤の谷
縁柱にもたれて藤の親しさよ

なお、円山公園の「あけぼの楼」ですが、場所やその後の経緯を調べたのですが、残念ながら、はかばかしい結果を得るに至っていません。