俳句的生活(257)-蕪村の詠んだ京都(13)川涼みー

ウイキペディアに、各時代ごとの鴨川の断面が表示されたものがあります。現在のような「みそそぎ川」が鴨川右岸の河原上に作られて、そこに先斗町の料亭から川床が張り出されるようになったのは近代になってからで、江戸から明治初期までは、鴨川の自然の傍流の上で ”川涼み” が行われたことが判ります。

鴨川の断面
鴨川の断面(ウイキペディアより)

元禄3年(1690)6月、芭蕉は「四条の川原涼みとて、夕月夜のころより有明過るころまで、川中に床をならべて、夜すがら酒のみ、もの喰ひ遊ぶ、、、流石に都の景色なるべし」と前書きして、

川かぜや薄がききたる夕涼み

という句を残しています。中七は、”薄柿色の涼み着を着て” という意味です。元禄期、江戸はまだ新興の都市であり、900年の都であり続けた京都に対して、芭蕉はリスペクトしているのですが、それから100年経った蕪村の天明期においては、「花の都は二百年前にて、今は花の田舎たり、田舎にしては花残れり」などと京都を揶揄する江戸人が現れる程になっていました。

これに対しての蕪村は、ことさら気負い立つことなく、

うき草のかさなりもあへず涼み川  (天明3年 蕪村68歳)
我影を浅瀬に踏みて涼みかな  (同上)

と詠んでいます。”かさなりもあへず” とは、清流の鴨川では、浮草が重なったりもせず流れに洗われていく、という意味です。京都人は現在においても、文化的には京都は東京に負けてはいない、という自負を持っていて、その象徴的なのが鴨川と隅田川との比較です。これは優劣ではなく、好みの領域ですから、仕方ない処なのでしょう。

川涼みを詠んだ蕪村の句には他に、

網打の見えずなりゆく涼みかな

鴨川の投網での鮎漁を詠んだ句です。

河床や蓮からまたぐ便りにも

四条河原の納涼をともに遊んだ仲間への追悼句。極楽の蓮から跨いでくるのに便利なようにと、川床で待っていますよ、という句。

などがあります。

四条河原夕涼みの図
四条河原夕涼みの図(豊国三代 安政5年(1858)作)