俳句的生活(254)-蕪村の詠んだ京都(11)桜
花(桜)を詠んだ蕪村の句は、俳諧宗匠になった時と、前稿の灯火で既に二句ほど紹介しています。
花守の身は弓矢なき案山子かな
花の香や嵯峨の燈火きゆる時
蕪村の桜の句は、100句程度ありますが、本稿では詠まれた地名がわかるものに絞って紹介することにします。
花を詠んだ句というと、虚子の場合もそうでしたが、嵐山や円山公園など実際に桜の樹が植わっている処を詠んだものが多いのですが、蕪村には京都の繁華街である木屋町での出来事を詠んだものがあります。それはなには人の木や町にやどりゐしを訪ひてという前書きに続く
花を踏みし草履も見えて朝寝かな (安永5年 蕪村61歳)
という句です。これは大阪からの客人が、前日、京都の花の名所を歩き回り、疲れ果てて木屋町の宿に帰ったのですが、翌朝おとずれてみると、玄関には桜の花びらがくっついたままの草履が脱ぎ捨てられたままに朝寝をしていた、というものです。木屋町は河原町通りと鴨川の間の、高瀬川に沿って四条から三条へ続く京都屈指の繁華街です。東京でいうと銀座の並木通りに相当する処でしょうか。蕪村の家のあった烏丸通りからは、割と近い処です。
又平に逢ふや御室の花ざかり (安永年間)
仁和寺の御室というのは、仁和4年(888)に寺が作られて間もなく、宇多天皇がここに御座所を設けて以来、御室と呼ばれるようになった処です。徒然草に ”仁和寺の法師” という逸話があるので、地方で高校を過ごした私にも馴染みある地名でした。
蕪村はこの句に合わせて下のような俳画を描いています。
又平とは大津絵師で、花見客にまぎれて浮かれ踊る姿が描かれています。仁和寺の桜を描くのに、このような人物画にしたところが、蕪村の蕪村たる所以です。
京都で桜の名所といえば嵐山です。嵐山の桜は、平安中期に吉野山から山桜が移されたのが始まりで、江戸時代の中頃には京都での花の名所となっていました。
筏士の蓑やあらしの花衣 (安永9年 蕪村65歳)
筏士(いかだし)とは、丹波の木材を保津川に乗せて運ぶ人のことです。その蓑(みの)に嵐山の雨で散る花びらが衣のようになってくっついている、という句です。前書きは雨日嵐山にあそぶとなっています。
行水にちればぞ贈る花の雲 (同上)
これも保津峡の桜を詠んだ句です。
嵯峨へ帰る人はいづちの花に暮れし (同上)
前書きが日くるゝほど嵐山を出るとなっていますので、蕪村は嵐山での花見を終えて帰路についているのですが、逆に都から嵯峨に帰る人がいる、嵯峨をおいて、都のどこで花を見てきたのだろうか、という句です。
月光西にわたれば花影東に歩むかな (安永6年 蕪村62歳)
前書きには渡月橋にてとなっています。この句は、月が明け方に西の方へ傾くと、花影は東に移動していく、というものです。この日蕪村は、”夜もすがら” 嵐山で月を愛でていたのでしょうか。
眠たさの春は御室の花よりぞ (安永8年 蕪村64歳)
春の眠たさは、御室の花が咲く春暖の候から始まる、という句です。御室の桜は遅咲きで、例年は4月中旬に満開となるのですが、しかし今年(2023年)は4月3日に見頃となり、上旬に満開となったそうです。