京大俳句会(11)-第174回(令和5年8月)-

今月の兼題は「朱夏」です。

灼熱の太陽

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1  京の朱夏心静かに身も涼し              幸男

2  コロナ明け米寿の友と肩を組む            幸男

 高齢でコロナに罹ると命にかかわる、それもいちおう下火と言われる時期がきた。生き延びたなあ、米寿(88歳)の祝いと病気に勝つた快癒が重なり方を組み合う。二重の喜びです。でも、まだ流行の恐れあり。ご用心下さい。(吟)

3  朱夏暮れて河原の涼風脛白し             のんき

4  朱夏暮れぬどれもなめらか河原石           吟

「3 朱夏暮れて河原の涼風脛白し・のんき」とよく似ている。夏夕方の川風に涼み、「涼風」や「白い脛」が夏の一日の経過を鮮やかにいいとめています。
拙句は、下五が説明調になりましたが、河口近くなると、石ころは浸食されてしまっていて白く丸い石が広がっている、という風景句でくつろいでいます。(自句自解)

5  朱夏なればふるさと帰る無一文            二宮

司馬遼太郎が江戸時代に社会主義を提唱した安藤昌益の思想を評して、言っている事がザラザラしていると述べ、ざらざらした物にこそ独創性が潜んでいるとした。俳句の中にもザラザラしたものとツルツルしたものがある。多くの結社の出す刊行誌をみると、ほとんど美しい言葉や俳句用語の組み合わせを工夫したツルツル俳句で、読んでいて心地よいが、作り手の個性や主体が見えず飽きてしまう。ようするに誰が作っても変わりがない。しかし、二宮さんの掲句にせよ先月の作品「876道真見たか祇園の会」にしてもザラザラしている。この句は游々子さんと吟さんとが、それぞれ、まったく正反対の評価をされたが(こういった論争こそが京大俳句会の持ち味)、こういった個性のある俳句こそが京大俳句にふさわし。(楽蜂)

6  朱夏にして猛虎の勢盛んなり             嵐麿

この作者にとっては、「猛虎」=阪神タイガーズ。優勝おめでとう!道頓堀に飛び込みに行ったんじゃないかと、心配しました。暑い夏でしたね。「朱夏」の季節にぴったり似合っていて、「にして」がとても効いている。(吟)

7  朱夏の窓闇に浮き立つ座禅堂             つよし


8  修業の日思いださせるコンチキチン          嵐麿

9  声明の転結と聴く蝉時雨               つよし

蟬の大合唱にもおのずからリズムがあり、時雨が降るように急にいっせい鳴きまた急に、鳴きやむこともある。それが読経の(節を付けて唱える声明の)節回しやリズムの転結と合うのである。蝉の声が声明の転結に応じてあたかも声調がかわってしまうのか、信者は同時に聴き入れてしまう。夏のお寺の境内の光景が目に浮かぶ。(吟)

10  瀬戸海を鎮める鳥居朱夏に立つ            游々子

11  蝉啼ける天文台の投句箱               楽蜂

これは最近、京大の花山天文台を訪問したときのもの。ここの天文台は夜空を観るもだけでなく、昼間に太陽黒点も観測している。だからセミも鳴いているのであるが、不思議な事に受付の付近に投句箱が置かれていた。聞いてみると市民と連携したこの施設のアウトリーチ活動の一つらしい。大学の天文台もたいへんである。(自句自解)

12  大文字送り火燃え立ち仏去る            のんき

「大文字」の季語には、観光騒ぎだけではなくもっと敬虔な仏教的な意味があることを改めて感じさせる。のんきさんは何時もおっとりした大きな句柄を出すので私は大好き。でも今回は散漫になっているので、もう少し整理された方がいいかと思う。

㋑「大文字」は、すなわち京都の盂蘭盆会の行事(五山送り火)を示します。「送り火」だけなら、各家庭、全国に寺で行われる盆行事。
㋺「大文字送り火燃え立ち」でそのような意味の「送り火」の情景が重なる。
㋩「仏去る」は、仏には違いないのですがもうすこし身近な「死者の魂」の事。
㋥「送り火」とはその行事によて「仏去る」事なので同じことがらをしめしています。

同じような意味合いの言葉がたくさん重なると、景の広がりがかえってごちゃごちゃとうるさくなり、句が平板になり、結果として感動させる力が弱くなります。
情景の美しさを言いたいときには、思い切って省略するのがといいかと思います。
自分で言葉を思いつくのが一番いいですが、大文字の句はたくさんあるので、類句にならぬように気を付けてください。(吟)

13  地にしだれ色をこぼして萩の雨           蒼草

萩の花は盛りを迎え、枝葉は重くしだれるほどである。雨の粒に打たれて枝葉が地面に打ち斃れる。あまって地にこぼれる花もある。葉の緑よりも花の色の方が目立って鮮やかに地面にこぼれ散らばる。文句なく美しい風景を写生句にまとめて過不足ない。描写はあくまで古典的で「それを「色」を「こぼす」と表現した。むしろ和歌的である。伝統の型をすでに身につけておられます。(吟)

14  夏蝶のただ飛び居るをふと見たり          游々子

日ざかりの下、蝶がひらひらと空中を飛んでいる、「ただ飛んでいる」という自然の動きに気が付いた。探し回ったのではなく眼前に「ふと」気が付いたのである。この「ただ」と「ふと」を生み出す間合いの呼吸が、作者の無心(一瞬の放心と覚醒)をあらわし、蝶の無心さとかさなる。この作者がこういう思念に誘うようなしっとりとした句を為したことがうれしい。(吟)

15  夏休み語る友いずふるさとも            二宮

 夏休みには習慣としてみんな帰郷する。自分も帰郷したがそのふるさとにもやはり話をする旧友がいない。生家ももうないのかもしれない。人生の孤寓(古郷喪失)の思いが重なる寂しい「夏休み」である。季語の働きにバカンス感覚を越えた深みや揺らぎがでてくる、独特な個性的な有季表現である。同じ作者「朱夏なればふるさと帰る無一文」。どちらも夏の帰省の句。これも望郷心も含まれ生活環境もほのめかす。豊かな心情がこもっている。 (吟)

16  ポン菓子屋恨みはないが真夏に来んな        楽蜂

ポン!とすごい爆発音をたてるポン菓子屋さんが、昔は街に沢山いて、和製ポッポコーンを作っていた。子供の頃はそれが面白くて側でよく見物したものだが、圧力容器に熱を使うので、近づくとむやみに暑い。最近、スーパー店の前で、めずらしくそれが出ていてポン・ポン鳴らしていたが、近づくとやはり暑いのは変わっていなかった。(自句自解)

懐かしい、暑苦しい「ポン菓子屋」覚えています。そういうおやつしかなかった時代でした。「こんなこと言いたくないが、よりによってこんな暑い日に」、という気持ちがよく出ている。「ポン菓子屋」は庶民的なくだけた愛称である。「真夏に来んな」という捨て台詞のような方言(語)。五七七調はあまり使われないが、こういうときにピッタリきまっている。型破りのようだがしかし見事に型をなしている。共感を呼ぶ秀句ですね。(吟)

17  見納めが母の口癖こぼれ萩             遥香

18  陸奥の遠浅鎮め朱夏の果つ             蒼草

19  黙祷の時空を超ゆる朱夏の空            遥香

「ポン菓子屋」とはがらりと雰囲気の変わる高尚な一句である。「空」の字が二つでてくるがそれぞれ意味が違う。その「空」が一句の中で一体化して、内面の宇宙空間にひろがってくる。気持のいい「大景」の句。読み方に、切り口は二つあり、けっきょくは同じ一体化で心と空につながるのだけれど、そこに至る感情の道筋が少し違ってくる。「黙祷の時空」で切り、心を深くしていると、真夏の空が深々とひろがっているような気になる。いっそう心の思いを深くした。

また、兼題として出ている季題「朱夏」に焦点を当てる。「黙祷の」で切り、「時空を超える朱夏の空」と二句一章の創り方だと解釈する。目をつむって冥福を祈っている心中の時空、一方、夏空がどこまでも広がり時と空間の境も消えるほど深くなっている自然界に生じる時空。二つの世界の存在を取り合わせて(はっきりさせて)両者のコレスポンダンスを伝える。私は後の読み方でいただきました。(吟)

20  もごもごと翅に不満か天道虫            吟

天道虫は、飛び立つまでにもごもごして何をとまどっているのでしょう。やがて、しぶしぶのようにゆるっと翅を拡げて浮き上がります。(自句自解)
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人それぞれの受け止め方、その表し方は千差万別ですね。
今回も、楽しく鑑賞させていただき、ありがとうございました。(吟)