俳句的生活(251)-蕪村の詠んだ京都(8)俳諧宗匠ー

丸亀より帰京して2年、明和7年(1770)、蕪村は師の宋阿が名乗っていた夜半亭を二世として継承しました。宋阿の夜半亭は、江戸日本橋での宋阿の庵名を以て一門の名称にしたものですが、蕪村の場合は、住居とは関係なく、一門の名称を二世として継承したものです。

蕪村の住居については、讃岐から戻ったときには、四条烏丸の東側でしたが、夜半亭二世を継承したときは、烏丸通の西側の室町通綾小路下ル町に住居を移しています。ここに5年住み、最終の住居は仏光寺烏丸西へ入町となっています。位置関係は次の地図のようになっています。蕪村は京都では中流階級に属していたと思いますが、これらの住居は全て「寓居」即ち借家となっています。

蕪村旧宅跡の地図
芳賀徹「みやこの円熟」より
蕪村旧居跡
仏光寺通の蕪村旧居跡

京都の街は時代とともに中心が左京に遷っていくのですが、この時期の烏丸通は河原町通に劣ることなく、京の中心であったと思います。京都での住居の購入費用については、もう少し時代が下がった頃、頼山陽が丸太町通りの鴨川西岸に、いわゆる ”山紫水明の処” の住居を購入した費用が200両(現在価格で2000万円)であったので、それほど高騰したものではありませんでした。

江戸時代の俳諧宗匠というのは、一門の句会で選者を務め、当時の言葉では ”点者” と呼ばれていて、点者になることを「 ”点列” に加わる」と表現されていました。「点」とは作品を批判評価し、添削することを意味しています。蕪村が点列に加わったとき、京都での点者は66人いて、蕪村はその末席を占めるという立場でした。点者になると、”文台開き” という宗匠になったことを世間に知らせる儀式で、同業の宗匠たちを料亭に招待して挨拶をするのが慣例でしたが、”点料” で生活する意識のない蕪村はそうした派手なことは行いませんでした。蕪村にとっての本業はあくまでも画家であり、俳諧はあくまでも余技であったのです。

宗匠就任にあたっての蕪村の句は次のようなものです。

花守の身は弓矢なき案山子かな

この句は、新米点者である自分を謙遜し、弓矢を持たない案山子に例えたものです。

昔の句会がどんな様子のものであったのか、明治30年頃の子規庵での句会が絵になったものがあります。まだ子規が ”文台” を前にして座ることが出来た様子が描かれています。漱石や虚子の名前も見え、賛は河東碧梧桐によるものです。蕪村の頃の句会もこのようなものだったのではないかと想像しています。

子規庵での句会
子規庵での句会

夜半亭二世を継承して4年後、蕪村59歳のとき、小学校の教科書にも載っている次の超有名な句を蕪村は詠んでいます。万葉集の柿本人麻呂の和歌を連想させる句ですが、上句の一語で和歌にない情景を展開させています。名詞一語で情景が広がる、これが俳句の醍醐味といってよいでしょう。

菜の花や月は東に日は西に