俳句的生活(250)-蕪村の詠んだ京都(7)京都での定住-

明和5年(1768)4月下旬、蕪村は妻と娘の待つ京都の自宅に戻りました。この時より亡くなるまでの25年間、蕪村は大阪などに赴く以外、自宅を留守にすることはありませんでした。讃岐に出立する前に蕪村は「三菓社」という俳句同好会を作っていましたが、帰京するや数日にして、三菓社による句会を再開しています。年末までの半年間で実に18回もの句会を催しているのです。

狩衣の袖の裏這ふ蛍かな  (5月6日)
川狩や帰去来といふ声すなり  (5月16日)
鮎くれてよらで過行く夜半の門 (6月20日)
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな (8月14日)
楠の根をしづかにぬらす時雨かな (9月27日)
宿かさぬ灯影や雪の家つづき  (11月14日)

蕪村の俳句は、虚子もそうでしたが、古典に準拠するものが多く、上の6句の中だけにも、”狩衣” ”帰去来” ”鳥羽殿” と3句が含まれています。また後年の蕪村には「京の隅の籠り居の達人」として ”灯火” を詠むことが増えるのですが、その片鱗は既に6句目に現れています。蕪村の絵画で名作中の名作となっている国宝「夜色楼台図」は将に雪の中の ”灯色” を描いたものでしょう。

夜色楼台図
夜色楼台図(部分)

ところで、この時期の蕪村には、炭太祇(たんたいぎ)という強力な助っ人となった俳友がいました。彼はもとは江戸の吉原に住んだ名の売れた俳諧師でしたが、京都に来てからは島原の置屋に住み、女性たちに字や俳句を教える人気者になっていました。祇園もそうですが、島原のような花街では、芸妓たちは旦那衆とのお相手になれるだけの教養が求められていたのです。太祇は蕪村を島原に手引きし、最大の揚屋である「角屋(すみや)」に紹介することになりました。角屋は蕪村の絵を大量に注文し、同業者やお客にも紹介しています。彼らは蕪村の俳句の弟子にもなっていたのでした。(揚屋とは現代でいう料亭のことで、置屋とは芸妓を抱え揚屋に派遣するセンターのことです。)

花街としての島原は現在終焉し、揚屋角屋は角屋文化美術館として江戸時代のままの姿で保存されていて、そこでは蕪村の絵が随時展示されています。NHK朝ドラの牧野万太郎もそうですが、蕪村も人懐っこい性格で、多くの人からの支援を得られる人でした。一つしかない人生、こうしたキャラでありたいものです。

角屋美術館
現在の角屋美術館