俳句的生活(249)-蕪村の詠んだ京都(6)讃岐ー

結婚して6年後、明和3年(1766)、蕪村は妻子を京都に残して讃岐に赴いています。その理由として、屏風講のメンバーに絵がほぼ行き渡り、新たに販路を開拓する必要があったためです。蕪村の絵はまだ地方から注文が集まるほど著名にはなっていなかったからでした。

行き先として讃岐を選んだのは、それまでの交遊によって讃岐には知己が何人もいて、絵の注文が得やすいと判断したためです。

当時讃岐へは、大阪から金毘羅船で兵庫や岡山の港に寄港しながら、丸亀に向かうものでしたが、蕪村は同行者がいたせいか陸路を須磨まで歩いています。

金毘羅船
金毘羅船

讃岐は江戸時代、東讃と西讃で2つの藩に分かれていました。東の高松藩(12万石)は水戸光圀の兄が初代藩主となっていて、子のいなかった光圀は高松の甥を自分の養子として、水戸徳川家の3代藩主にしています。西讃は丸亀藩(6万石)が支配し、偶然ですが、丹後の宮津藩も丸亀藩も共に京極家が藩主となっていました。豊臣秀吉は何人もの側室を抱えていましたが、そのうちの一人である京極龍子は、宮津・丸亀の藩祖たちの従姉となる人でした。丸亀城の天守閣は江戸時代の木造の天守がそのままに残っていて、三層の天守は日本の城の天守閣で最も小さいものとして知られています。

丸亀城天守閣

蕪村はこのお城の少し北側にある浄土宗の寺院(妙法寺)に逗留しています。この寺は今丸亀では蕪村寺と呼ばれていて、蕪村はこの寺で名作「蘇鉄図」を描いています。

蕪村の蘇鉄図
妙法寺の蘇鉄図

この絵は当初は襖に描かれたものでしたが、保存のために寺の方で屏風に仕立て直したものです。現在はお寺の所蔵となっています。

当然のことながら、蕪村は金毘羅宮のある琴平にも出向き、知人の家に逗留しています。丸亀から琴平へは、金毘羅街道と呼ばれる15kmほどの道が途中、弘法大師の生誕地である善通寺を経由して続いていました。余談ですが、東京の虎ノ門にある金毘羅神社は、京極家が三田の丸亀藩上屋敷に琴平の金毘羅宮から勧請したのを遷座したものです。一般庶民にも月一度のお参りが許されていましたから、江戸にいた蕪村も訪れていたかも知れません。

丸亀港の太助灯篭(金毘羅街道の起点)

琴平は芝居が盛んなところで、春秋のシーズンには京大阪から名代の役者がやってきて、芝居好きな蕪村もそれらを楽しみ、書簡には、金毘羅も三月市、若大夫相極り候よし、そはそはとさわぎ立候、と書かれたものが遺されています。琴平には現存する最古の芝居小屋として、歌舞伎の金丸座がありますが、これは天保年間に造られた座で、蕪村の頃にはまだありませんでした。蕪村が琴平で象頭山を詠んだ句には次のようなものがあります。

象の眼の笑ひかけたり山桜

讃岐に来て半年後、蕪村は上洛したときに世話になった宋屋の一周忌で一度帰京しますが、そのとき妻子と会ったのかどうかといった記録は一切残っていません。また妻への送金もどうしていたのか一切不明です。自分ならこうしたことが一番の気掛かりなところですが、封建時代の夫というのは、概してこのようなものだったのかと思います。

蕪村が讃岐に滞在中に、京都で出版された「平安人物志」の画家の部に、蕪村の名が、円山応挙、伊藤若冲や池大雅らと共に初めて登場しています。画家として認知されたといえます。このときの住所は「四条烏丸東へ入町」と記されています

蕪村が丸亀をあとにするにあたって作った一句は次のものです。

長尻の春を立たせて棕櫚の花

なお、小学校の教科書にも載っている次の句は、蕪村の結婚後から讃岐への出立までの間に詠まれたものです。この時期、蕪村は「三菓社」という俳句同好会の指導者となっていて、蕪村の俳句はこのころより蕪村調のものとなっていきます。帰京後は夜半亭を二世として継承し、俳諧宗匠の仲間入りをし、いよいよ円熟期を迎えることとなります。帰京した年、蕪村は53歳になっていました。

春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな