俳句的生活(248)-蕪村の詠んだ京都(5)帰京ー

宝暦七年9月、蕪村42歳のとき、3年余り滞在した宮津を離れ、京都に戻ることになりました。このとき宮津真照寺に橋立の松並木を描いた天橋立図を残して来ています。

蕪村の天橋立図
蕪村の天橋立図

図の上部には長い賛が書かれていますが、ここには宮津で最後の作となった次の句が含まれています。

せきれいの尾や橋立をあと荷物

この句は、”尾やはし” が「尾をはやく振る」という意味で橋立にかけているのと、”あと” が橋立をあとにするのと、後荷物(後から送る荷物)にかけるという、相変わらず江戸の宗匠俳句を引きずったものになっています。

俳句のレベルはまだまだですが、絵については丹後での修業が実って、既に一流の域に達しています。

蕪村の枯木叭々鳥図
枯木叭々鳥図(蕪村)

叭々鳥(ハハドリ)はムクドリ科の一種で、嘴にふさふさした毛が生えているのが特徴です。絵図は2羽が地面に立ち、3羽が空中で絡み合い、3羽が枝に止まっていて、画面を斜めに横切る古木の枝が印象的な構図になっています。

この時期の蕪村の絵にどれだけの値段が付いていたかと言うと、屏風のような大作で3両、掛け軸のような小品で2分(1両の半分)でした。1両は現在価格で約10万円ですから、国宝になっているような屏風の大作でも、現在価値で30万円の収入にしかならなかったのです。当然蕪村の懐は火の車で、画材を買う金にも困る状態で、それを見かねた弟子たちはお金を出し合って画材を買い、蕪村に絵を描いてもらって、順番に購入していくという仕組みを作ることになりました。その組織は屏風講と呼ばれています。

屏風講は家計に小康をもたらし、宝暦10年、蕪村は「とも」という女性を娶っています。「とも」は、蕪村没後に清了尼と称し、蕪村が没した天明3年(1783)から31年後の文化11年(1814)に没し、蕪村と同じ京都洛北一乗寺の金福寺(こんぷくじ)に葬られています。この女性についてはこれだけのことしか判っていないのですが、ただ蕪村の手紙に「田舎より妻一家どもまかり登り」と記されたものがあることから、京都の人ではなかったようです。この結婚を機に蕪村は僧籍を離れ還俗し「与謝氏」を名乗るようになっていますので、「とも」は与謝の人ではないかと思っています。

二人の間には「くの」という女の子が生まれています。蕪村はこの子を愛し、15歳の時に嫁に出すのですが、嫁いだ先の父親は強欲な人であったらしく、半年でこの結婚は破綻しています。蕪村は娘を取り戻しますが、この辺のところは樋口一葉の小説「十三夜」とは真逆になっていて、封建時代というものについて考えさせられる処です。