俳句的生活(247)-蕪村の詠んだ京都(4)丹後ー
上洛後3年を経た宝暦4年、蕪村37歳の時、ようやく足場を固めつつあった京都を離れ、俳友の竹渓が住職として赴任した宮津の見性寺という浄土宗の寺院に、雲水として寄寓することになります。竹渓が丹後に下るときに蕪村が贈った句は、
たつ鴫に眠る鴫ありふた法師
というものです。ふた法師とは竹渓と蕪村のことです。友達の後を追うとはいえ、何故に蕪村が宮津にまで赴いたかというと、蕪村は京都に居る間、各所の寺院を巡り襖絵などを見て、絵画の勉強をしていたのです。私の推測ですが、そうした中に雪舟の「天橋立図」も含まれていて、蕪村の旅心を刺激したのではないかと思っています。
余談ですが、現在残っているこの絵は下絵で、本絵は徳川将軍家に献上されたのですが、火事で焼失したと言われています。雪舟のこの絵は空から見た鳥観図となっていて、現実に見れる角度とは異なっています。
蕪村は人を惹きつける魅力を備えた人物であったようで、この宮津へも江戸で知り合った雲裡坊という旧友が訪ねてきています。江戸での初対面の時、蕪村は、
水桶にうなづきあふや瓜茄(うりなすび) (元文~寛延年間)
と詠んでいます。瓜と茄は二人を喩えた表現です。蕪村は雲裡坊を連れて天橋立へ行き、次の句を詠んでいます。
みじか夜や六里の松に更(ふけ)たらず (宝暦5年 蕪村40歳)
”六里の松” とは3kmの天橋立の松並木のことです。この時期の一里は六町のことで、天橋立の長さに相当しています。句は、尽きせぬ話を語っていると、短い夏の夜は更けきらないうちに白み始めた、というものです。
5年後、雲裡坊が筑紫に出立するとき蕪村の詠んだ句は、
秋かぜのうごかして行(ゆく)案山子かな (宝暦10年 蕪村45歳)
というものでした。”案山子” は同行を誘われたものの応じなかった蕪村自身を指していて、前句と同様に二人の親友関係を窺わせる句となっています。この時期、京都に帰っていた蕪村は結婚していて、秋風に誘われて心は動かされながらも同行することが出来なかった境遇を詠んだのです。雲裡坊は筑紫に立った1年後に没しています。
宮津時代、蕪村は絵の分野で大きな進歩を遂げています。そのレベルは後年の俳画に近いものとなっていて、次の絵は見性寺に遺されている妖怪図(一部)ですが、十分に俳画的ユーモアを備えたものになっています。
京都へ戻った蕪村は、「与謝氏」を名乗るようになりますが、そのきっかけとなったのは、宮津滞在中の蕪村が、「与謝峠」を越えて母親の故郷へ行脚したことです。そのとき野田川という小川を草履を脱いで渡っていて、そのときの句が次のものです。
夏河を越すうれしさよ手に草履
蕪村が草履を掲げて川を渡った処は、現在「野田川親水公園」として整備されていて、傍らには句碑が建っています。またこの辺りは現在「与謝町」として地名登録されています。
ところで当時のお寺の経済状況ですが、今と違って全ての住人は壇徒として寺に登録されていて、寺自身も寺領というものを持ち、蕪村のような雲水を一人や二人寄寓させることは何でもありませんでした。因みに天橋立の近くに知恩寺という禅宗寺がありますが、天橋立はかっては知恩寺の寺領の一部でした。蕪村も無為の食客として見性寺に寄寓していたのではなく、多くの絵画を寺に残してきているのです。