俳句的生活(246)-蕪村の詠んだ京都(3)上洛ー

20歳で江戸に上り、16年間江戸および関東で暮らした蕪村でしたが、36歳となった夏に上洛することになりました。この上洛が蕪村にとっては初めての京都で、2回ほど地方へ行くことがありましたが、68歳で亡くなるまでの約30年間、蕪村は京都で過ごすこととなりました。この間の略譜は次のようになります。

宝暦元年(1751年) 蕪村36歳 上洛(8月)
宝暦4年(1754年) 蕪村39歳 丹後に赴き3年間滞在 
宝暦10年(1760年) 蕪村45歳 結婚  
明和3年(1766年) 蕪村51歳 讃岐に赴き2年間滞在
明和7年(1770年) 蕪村55歳 夜半亭二世継承(3月)俳諧宗匠となる
天明3年(1783年) 蕪村68歳 没(12月25日)
天明4年(1784年)1月25日葬送、27日金福寺埋骨

この間時代はどう動いていたかというと、蕪村が上洛した年に徳川吉宗が没し、蕪村が讃岐から戻った年に田沼意次が側用人となり、老中としての田沼時代は蕪村の死後まで続いています。即ち蕪村が活躍した時代というのは、パックス・トクガワーナと謂われている徳川政権が最も爛熟した時代と重なっていました。

若いころの蕪村は僧の形をして旅をしていたと考えられています。

蕪村像
若き日の僧形姿の蕪村像

雲水姿で上洛した蕪村は、知恩院の塔頭に寄宿したと考えられています。蕪村は丹後の宮津や讃岐の丸亀でもお寺に寄宿するのですが、その習慣は関東に居たときに身につけたものでした。

知恩院三門
知恩院三門

上洛した蕪村はただちに知己の毛越(もうおつ)を訪れ、次のような挨拶句を作っています。

まるめろはあたまにかねて江戸言葉  (宝暦元年 蕪村36歳)

この句の前書きには、予、洛に入りて先ず毛越を訪ふ。越、東都に客たりし時、莫逆の友也。と記されています。毛越は江戸で蕪村の師の夜半亭宋阿と交遊があった俳人です。「まるめろ」は西洋梨の実のことで、僧形の自分の頭にかけた表現です。しかも話すのは江戸言葉。これが蕪村の自己紹介の挨拶句でした。

この直後、蕪村は師宋阿が京都に居たころの門人であった富鈴房宋屋(そうおく)のもとに挨拶に行っています。宋屋は蕪村が江戸に居たときからの文通の相手でした。このとき宋屋の門人である稲太(いなた)を入れて次のような三吟の一巡をしています。

秋もはやその蜩の命かな  蕪村
雲に水有り月に貸す庵(やど) 宋屋
瓢箪の丸きに露の取り付いて 稲太

蕪村の発句の「その蜩」は「その日暮らし」に掛けたものです。それに対しての宋屋の応答は、「いつでも宿を貸しますよ」というものでした。宋屋はこのとき65歳、京都俳壇の古老となっていましたが、蕪村を宋阿門の兄弟弟子として暖かく迎えたのでした。

翌宝暦二年、蕪村は東山の麓に居を定め、次の句を詠んでいます。

我庵(いほ)に火箸を角(つの)や蝸牛  (宝暦二年 蕪村37歳)

句意は、我が庵で火箸を角として振り立てていると、私はまるで蝸牛そのものだ、というもので、自分の住居を戯画化した滑稽句です。まだ江戸での作風が続いています。

この頃より絵をアルバイト的に描くようになり、生活基盤も徐々に出来上がって来ています。