俳句的生活(245)-蕪村の詠んだ京都(2)江戸ー

蕪村が江戸に来たのは20歳ごろと推測されているのですが、はっきりとその足跡が辿れるのは、22歳のとき、夜半亭宋阿(巴人)に ”拾ひたすけ” られて、日本橋石町の宋阿の家で住み込みの内弟子になってからです。宋阿の人柄は、”その情、質朴にして世知に疎く、道人の風儀あり” と追善集に記されていて、蕪村に対しては、あたかも父親であるかのように慈しんでいます。22歳の蕪村に対して宋阿62歳という関係でした。

宋阿は芭蕉の高弟である宝井其角・服部嵐雪の門人なので、当然芭蕉の流れを汲んではいますが、芭蕉の死後40余年が過ぎていた当時の江戸俳諧は、芭蕉が確立したいわゆる蕉風の極めて芸術性の高い作風は地に堕ち、趣向の面白さを詠む作為的な俳諧が主となっていました。こうした俳諧宗匠たちは「江戸座」という組合を結成して、江戸俳諧を牛耳っていたのです。

こうした風潮に染まらざるを得ないのか、蕪村も趣向の面白さを詠み、絵俳書を残しています。「卯月庭訓」というもので、立て膝で手紙を読む洗い髪姿の女性を描いたものです。

卯月庭訓
卯月庭訓

自画賛に記されている句は、

尼寺や十夜に届く鬢葛(びんかづら)  蕪村(元文3年 1738年 蕪村23歳)

というものです。この句は、尼寺には無縁のはずの鬢葛を取り合わす面白さを詠んだものですが、後年の蕪村の俳味あふれた絵画や俳句と比べてみると、何ともつまらない絵であり句となっています。まだ詳しくは調べてはいませんが、正岡子規が明治30年代に改革しようとした俳諧宗匠たちの句はこうしたレベルのものだったのではないかと推測しています。

この句より4年後、蕪村27歳の時、師であり父親代わりでもあった宋阿が亡くなります。生活基盤を失った蕪村は、宋阿の門人たちの支援を受けながら、なおも関東に10年ほど滞在しますが、宝暦元年(1751年)蕪村36歳、いよいよ上洛する時を迎えることとなりました。