俳句的生活(244)-蕪村の詠んだ京都(1)少年時代ー

19歳から21歳までの2年間を三高で過ごした虚子にとって、京都はつねに青春を懐旧する土地でありました。一方蕪村にとっての京都は、京都生まれでない京都人として30年を過ごした、春や秋だけではないゆるやかな四季の古都であったといえます。

蕪村が生まれたのは享保元年(1716年)で、徳川吉宗が8代将軍に就いた年、松尾芭蕉よりも72年後の生誕。場所は大阪近郊の淀川に面した毛馬村というところで、生家は庄屋を務める農家でした。毛馬村は幕府の直轄地で、村高は925石となっています。毛馬は、淀川が都心の中之島へと分流するところにあり、京大阪をつなぐ大動脈の川沿いにありました。還暦を過ぎたばかりの蕪村が弟子に宛てた手紙にはこんな一節があります。

余幼童の時、春色清和の日には、必ず友どちと此の堤上にのぼりて遊び候。水には上下の船あり、堤には往来の客あり。

この生れ故郷を詠んだ句に、つぎのものがあります。

春風や堤長うして家遠し  蕪村(安永6年 1777年 蕪村60歳)

蕪村生誕地の句碑
生誕地毛馬の蕪村句碑

蕪村の句でも名句中の名句と評されている「懐旧」と前書のついた次の句も、この毛馬での少年時代を懐かしんだ句です。

遅き日のつもりて遠き昔かな  蕪村(安永4年 1774年 蕪村58歳)

蕪村はまた絵画でも大家をなした人ですが、その片鱗は少年時代から既に現れていて、蕪村門の俳人で京都の富裕な太物商が書いたものに、”少年蕪村には成人後に画師となった「童遊」がいて、40年を経たあとでも、その童遊のことを自分と語り合った” という内容のものが残されています。

ただ残念なことに、蕪村の両親は彼の10代前半に亡くなっています。そこで彼は20歳で江戸に上り、孤独な生活を送っていたのを早野巴人という俳人に ”拾ひたすけ” られて、門弟となるのですが、このことが後年蕪村をして大俳人となす切っ掛けとなりました。巴人は「夜半亭」という俳句一派を起こし、蕪村は後に二世として夜半亭を継ぎ、俳諧宗匠の地位を獲得したのです。蕪村は巴人の追善集に次のような追善句を載せています。

我が泪古くはあれど泉かな  蕪村(寛保3年 1743年 蕪村28歳)

俳諧宗匠とは今でいう結社の主宰のような立場の人で、句会や選集を編むときに選者の役を務めた人です。正岡子規が明治30年代に東京で俳句革新運動をしていた時期に、東京ではまだ30人の俳諧宗匠がいたそうです。

蕪村肖像画
蕪村肖像画