俳句的生活(242)-虚子の詠んだ京都(20)産寧坂-

京都清水に産寧坂と呼ばれる土産店がずらりと並んだ坂があります。通常は三年坂と呼ばれている坂ですが、この坂が二年坂と交わる所に、かって天田愚庵という人が結んだ草庵がありました。

産寧坂
産寧坂

草庵を愚庵と名付けたことにより、自分の名前を天田愚庵とするようになった人ですが、子規や虚子が交わった人の中で最も異色の人でした。なんと清水の次郎長の養子となった人で、彼が書いた「東海任侠伝」こそ、その後の講談や浪曲・映画の一次資料となり、次郎長のイメージを作り上げているのです。

天田愚庵
天田愚庵

愚庵は禅僧であり歌人でもありました。子規の和歌は万葉調を目指したものでしたが、それには愚庵の影響が大きかったと言われています。明治25年11月15日、子規は虚子を連れて産寧坂の愚庵を訪れました。嵐山の大堰川で舟遊びをした3日後のことです。

庵は敷地こそ95坪ありましたが、建物は方丈に過ぎず、そしてなによりも愉快なことは、彼(愚庵)は、庵の各所を漢詩風に十二勝と名付けていたのです。その内の一つ、物干し台には、”嘯月壇”  と名がついていました。ここで子規と虚子はそれぞれ次のような句を詠んでいます。

嘯けば月あらはるゝ山の上  子規

犢鼻褌を干す物干しの月見かな  虚子

子規の句は、三高寮歌「紅もゆる」の中の ”みやこの花に嘯けば 月こそかかれ吉田山” を連想します。但しこの寮歌は明治38年に作られたものですから、子規のこの句の方が先のものです。

虚子の犢鼻褌(たふさぎ)は褌のことです。この句に対して愚庵は、”俳人は素破抜くからいかん、僕が嘯月壇と云って気取って居るのを、褌を干す物干しの月見かな などゝいふからどもならん。” と言ったということを虚子は、昭和8年のホトトギスに載せた「俳句今昔」で述べています。愚庵を訪れた時の虚子は19歳でした。

私が産寧坂に行ったのは、10年前に家内と清水三年坂美術館に、七宝焼の展示を見に行ったのが最新のものです。この日は自転車で嵐山まで行き、帰りは東山三条の並河靖之七宝記念館と、祇園の建仁寺の境内を通ってこの清水三年坂美術館に寄り、夜は北白川の鮨屋で開かれた大学のクラス会に夫婦で参加したものでした。

並河靖之の七宝焼
並河靖之の七宝焼

祇園こえ清水めざす朧かな  游々子