俳句的生活(241)-虚子の詠んだ京都(19)御忌詣-

学生時代、私は下鴨神社の西側に下宿していて、大学への通いは糺の森の参道を通り出町柳に出て、百万遍に至るというコースでした。

昔の百万遍交差点
学生時代の百万遍交差点

当時は百万遍とは面白い地名だなとしか思っていなかったのですが、今、「御忌詣(ぎょきもうで)」というのを調べるために、浄土宗の公式サイトを見たところ、法然上人は毎日6万遍から7万遍も南無阿弥陀仏を唱えられたということで、それに由来した地名でないかと想像したのですが、念のため ”百万遍知恩寺” のサイトをチェックしてみると、元弘元年(1331年)に京都で疫病が流行ったので、知恩寺の僧が内裏に呼ばれ、7日7夜、念仏を唱えると疫病は治まり、念仏の回数が百万遍に達していたというので、後醍醐天皇が百万遍の勅号を寺に与えたとの由来が記されていました。

百万遍知恩寺の御忌詣
百万遍知恩寺の御忌詣

西山によき日沈みぬ御忌詣  虚子(大正10年2月13日)

虚子はこの句を東京での例会で詠んでいます。”御忌詣” は元々は法然上人の亡くなられた1月18日より7日間、法要が行われていたのですが、明治10年に4月19日からの1週間に変更されています。御忌詣が春の行事の季語となっています。知恩院は東山のやや高い位置にあり、そこからは西山に沈む夕日がよく見えたのです。

京都西山に沈む夕日
京都西山に沈む夕日

浄土宗の公式サイトでは、御忌詣のことを次のように説明しています。

知恩院では毎年盛大に法会が営まれたようですが、ほかの大本山はじめ各地の浄土宗寺院でも行われるようになりました。
江戸やその近郊で行われる年中行事を解説した江戸時代後期成立の『東都歳時記』には、増上寺での御忌の模様が「正月(1月)二十五日」の日付とともに描かれています。三門から大殿へと進む、大名行列と見まがう練行列、それを見守る大勢の人々。当時から御忌は、盛大で厳かな一大法要であったことが見て取れます。

東都歳時記「増上寺の御忌詣」
東都歳時記「増上寺の御忌詣」

そして更に、浄土宗の公式サイトは御忌詣を詠んだ江戸時代の俳人二人の句を紹介しています。この時の御忌詣は当然1月(陰暦)に行われています。

御忌の鐘ひびくや谷の氷まで  蕪村
着だおれの京を見に出よ御忌詣  几董

法然上人の人柄をしのばせる一節が「徒然草」には、次のように書かれています。

或人、法然上人に「念仏の時、睡におかされて、行を怠り侍る事、いかがして、この障りを止め侍べらん」と申しければ、「目の醒めたらんほど、念仏し給え」と答えられたりける、いと尊かりけり。

私の家の宗派も浄土宗で、広島のお寺の住職さんからは毎月、Wordで創られた寺報が送られてきています。四月号には ”御忌詣” のことが書かれていました。住職さんはPCに精通されているようで、寺報はカラー印刷されたもので、図案や写真が多く、立派なものとなっています。

広島の裂けたる墓石朱夏に立つ  游々子

広島の墓
広島の墓