山小舎だより(14)-諏訪大社大祝(令和5年8月12日)ー

一昨日のことになりますが、食料の買い出しで山を下りたついでに、茅野の図書館へ行き10冊ほど本を借りてきました。帰途は5km諏訪方面に戻るのですが、前々から関心があった諏訪大社上社の大祝諏方氏の邸まで足を伸ばしました。

大祝(おおほおり)は下社にもありましたが、そちらは神職のトップ即ち宮司という職で、上社の方は五官の神職の上に立つ ”現人神” という位置づけでした。諏方氏と呼ばれるのは中世以降で、それまでは神氏(ごうし)と名乗っていました。宮川には今も神橋という名の橋が架かっています。

ところが江戸時代には神殿(ごうどの)と呼ばれ、3000坪の敷地に300坪の建物という広壮を誇った邸でしたが、現在の母屋はわずか43坪の侘しいものとなっていました。

大祝邸母屋
大祝邸の母屋
大祝邸の門
大祝邸の門

こうした状況になったのは、明治になって神社は全て国が管理することとなり、神職は国が任命し、大祝家はその地位を失い、失職してしまったのです。経済的基盤を失いそこから立ち直れなかった場合は、土地を切り売りしていくしか術がありません。更に2002年には最後のご当主(諏方弘さん)が跡継ぎがないままに亡くなられ、大祝家は完全に歴史の荒波に沈んでいくことになりました。

2,3年まえのことになりますが、神長官守矢資料館の裏に続く丘に登ったことがあったのですが、そこには諏方氏歴代の墓があり、異様な景観に眼を瞠ったものでした。

諏方氏の墓石
神長官守矢資料館の丘にある諏方氏の墓域

ここには20基ほどの墓石が並んでいて、どうやらここは元々は守矢家の墓域だったのを、大祝により移転させられて、諏方氏の墓域となったようです。

守矢資料館の説明員の話では、守矢家の現在のご当主は、東京に住まわれている守矢早苗さんという女性で、系図上で確か80代になられるという人です。その方が、神長官守矢史料館『神長官守矢史料館のしおり』に寄稿し、次のように説明されています。

屋敷からさらに西南、薬師堂近くに神長の墓地がもともとはあり、埋葬方法は土葬でした。しかし、諏訪頼広が分家し、大祝職に就き、宮田渡(みやたど)へ住まわれました際、この地を墓地として求められ、守矢家の墓地は熊野堂へ移りました。

それにしても墓域を譲らせるということは、並々のことではありません。

大祝家に残っていた「神氏系図」によると、初代は桓武天皇の皇子の有員(ありかず)親王となっています。そのころ既に諏訪大社は、親王が下って来るほどの大きな神社であったことが判るのですが、祭神の建御名方(タケミナカタ)とどう繋がっていくのかは不明のままです。因みに ”ミナカタ” とは ”水潟” のことで、諏訪湖を意味しています。

敗戦により、神社は国の統制から解き放たれ、宮司を自主的に選べるようになりました。この制度により、戦後最初に諏訪大社の宮司に就いたのは、神長官守矢家のご当主でした。この時点で大祝家をもう一度復興させる手段がなかったのかと思わずにはいられません。

蒼天が好き大鷹の舞ふ大樹  游々子