俳句的生活(240)-虚子の詠んだ京都(18)謡ー
虚子が謡を嗜んでいたのは夙に有名で、その系譜は松山藩士であった父や祖父にまで遡ることができます。そしてそれは漱石にも影響を与え、漱石もまた謡を趣味とするようになりました。「吾輩は猫である」の中で、猫は主人である苦紗弥先生の性癖を次のように述べています。
俳句をやって、ほととぎすへ投書をしたり、新体詩を明星へ出したり、間違いだらけの英文をかいたり、時によると弓に凝ったり、謡を習ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれもこれも物になっておらん。その癖やり出すと胃弱の癖にいやに熱心だ。後架の中で謡をうたって、近所で後架先生と渾名をつけられているにも関せず一向平気なもので、やはりこれは平の宗盛にて候を繰返している。みんながそら宗盛だと吹き出すくらいである。
また「永日小品」の中の「元日」の稿では、虚子の鼓で、”羽衣” を謡ったことが書かれています。
虚子の謡を詠んだ句に次のようなものがあります。
花の雨降りこめられて謡かな 虚子(昭和7年4月12日)
昭和7年、虚子は4月10日より1週間、京都に滞在しています。が、あいにく12日は雨で桜見物が出来ず、下鴨の宿を訪ねてきた阿部能成と和辻哲郎との三人で、「三井寺」と「阿漕」の二曲を謡っています。
能を詠んだ虚子の句には、更に次のようなものがあります。
年々の見物顔や薪能 虚子(明治32年)
薪能もっとも老いし脇師かな 同上
鼓あぶる夏の火桶や時鳥 (明治35年)
私自身が能に触れたのは、学生時代に岡崎の観世会館と、15年ほど前に小淵沢の身曽岐神社での薪能の二回しかないのですが、文語七五調で語られるセリフには惹かれるものがあります。ただし外国語を聴いているようで、セリフを暗記するぐらいになっていないと、ついてはいけません。
森の中甲斐に谺す薪能 游々子