俳句的生活(237)-虚子の詠んだ京都(15)大原ー

”祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり” で始まる「平家物語」は、壇之浦のあと大原寂光院に入った建礼門院を、後白河法皇が訪ねる「大原御幸」で終わっています。このとき最初に法皇の応対をする元女官は ”阿波の内侍” という崇徳上皇の寵愛を受けた人です。このとき既に60歳になっていましたが、寂光院での生活費の足しにするために、大原の産物を洛中にまで運び行商をした、その時の装束が大原女の装束の原点であると言われています。

大原女

私が京都で学生生活を送ったのは、昭和40年代の前半でしたが、この頃既に大原女という職業は現実のものではなく、かろうじて存在していたのは ”白川女” という花を売る行商で、一度だけ大学の近くの通りで見かけたことがあります。

白川女
白川女

祇園商店街振興組合のHPには、白川女のことを次のように記しています。

少し前まで見かけることができたのは白川女です。清楚な姿で、朝摘みの花と自家製の番茶を入れた藤の箕を頭上に載せ、「花いりまへんか~」と唄うような売り声とともに街を流していたとか。やがて大八車からリヤカーになり、交通事情から今では軽トラックでお得意さんの家を訪れます。普段は主に仏花を、年の暮れには注連縄なども扱います。

今では、大原女も白川女も、10月の時代祭に参加しているのを見ることが出来るだけです。

虚子の時代、大原女は段々と姿を消していっていますが、それでも現実の大原女に遇い、大原女の句を数多く創っています。

大原女に道をゆずるや落椿  虚子(昭和3年)

虚子は前年の12月に高野素十らと大原を訪れていて、鉄漿(おはぐろ)をつけた大原女に出会っています。

石崖の上の畑打つ大原女  虚子(昭和4年)

”畑打つ” が春の季語。虚子は3月31日に立子を伴い、寂光院、三千院を訪れ、「徳女の茶屋」で昼を取っています。徳女とは、明治から昭和にかけての俳人で、三千院前で「四季の茶屋」という料亭の女将をしていた人です。

大原女のあと猟人の通りけり  虚子(昭和13年)

”猟” が冬の季語。虚子はこの日、弟子たちと「平八茶屋」へ行っています。

大原女に心残すも紅葉かな  虚子(昭和22年)

虚子はこの時も京都市中への帰路、「平八茶屋」に寄っています。またこの日、時雨の句も詠んでいます。

大原は今も昔も時雨かな  虚子(昭和22年)

大原は、NHKの「猫のしっぽ、カエルの手」の番組で、現在の山里の姿が広く伝えられました。ベネシアさんが若くして亡くなったことは、痛恨の極みです。”大原” という固有名詞は、山里の風景とともに、歴史的情念を醸し出すので、17音の俳句では効率的な使い方であるといえます。

「吾妻鏡」によると、建礼門院が寂光院に入った2年後に、頼朝が平家の没所領のうち二つの荘園を与えたということで、困窮生活はそこまでだったのではないでしょうか。建礼門院徳子は59歳まで生き、波乱の生涯を送りました。

ほととぎす治承寿永の御国母 三十にして経読ます寺  与謝野晶子