俳句的生活(235)-虚子の詠んだ京都(13)虚桐庵(その2)-

虚桐庵とは三高時代の虚子の最後の下宿で、河東碧梧桐もここに下宿したことで、二人が自分たちの名をつけて勝手に呼称した下宿です。ここには松山出身で虚子よりも1年後輩である寒川鼠骨(本名:陽光(あきみつ))という人も下宿していました。彼も子規門下の俳人で、子規庵の保全に尽力した人です。晩年の写真が残されていますが、いかにも面倒見のよさそうな風貌をしています。

寒川鼠骨

鼠骨が三高在学中に、三高は現在の京都大学の吉田南キャンパスに移転する準備として、虚桐庵は取り壊されることになり、鼠骨は下宿を吉田神社前に変えています。その下宿は虚子が京都に来る時の投宿先となりました。

明治28年の4月5月に続き、明治29年9月には、旧暦8月15日に鼠骨が主催した句会に出席するために、虚子はまた2週間ほど鼠骨の下宿に投宿しています。そのとき虚子は、かっての虚桐庵の跡を訪れ、次のような擬古文を書いています。

庵は神楽岡の麓、吉田神社を去ること西に三百歩、道より左にして、夕月双松の影を落す所に在りき。柱曲りたれども風に堪ゆる壁あり、軒破れたれども雨を凌ぐ繰戸あり。春は霞近く円山に流れて、黒谷の夕鐘に雲雀麦圃に眼下に落ち、夏は袋の蛍を放つ青薄の露に纏ふ蚊遣りの夜更けて、水鶏裏戸を叩くこと急なり。秋は日晴るゝ時、庭の野菊に小狐の隠れ顔なる、雨降るとき、新酒温めて肌寒の衣重ぬる、いづれか詩魂動かざるなし。冬は時雨の戸、木枯の窓堅くしめて、難解の書に頭を擁きたる。更に雪の日こそ面白けれ。一帯の平原南に伏見の沢田に開けて、葺き並ぶ甍は本願寺堂塔伽藍に極るところ、洛陽の雪景眸裡に輻まりて、悉く銀をのべたる如し。

虚桐庵の正確な場所ですが、京大キャンパスの中に記念碑のようなものがなく、判然としていないのですが、戸主の名前は判っていますので、戸籍より手繰ってみようと思っています。

虚子はその後何度も京都で鼠骨と会っていて、明治31年8月16日は、三条の川床で二人で大文字の送り火を見物しています。次の3句はその時に創られたものです。

浅き水に灯のうつりけり床涼み
牡蠣をむく火に鴨川の嵐かな
へご鉢に大文字の火のうつりけり

大文字

虚子の京都は終生、三高時代の思い出に染まったものとなっています。

四時限の休講京の野に遊ぶ  游々子