俳句的生活(232)-虚子の詠んだ京都(10)北野
桜の樹は日本全国どこにもあるものですが、京都の桜の花の美しさの所以は、人工造形物を含めた自然景観と花との一体性にあると言って良いでしょう。虚子の時代、関東大震災で、まだ濃厚に残っていた江戸の名残りは消滅してしまい、東京は潤いのない都市になってしまいました。昭和2年6月の「ホトトギス」に虚子は、
だんだん年を取るに従って、此春は一つ春らしい感じで過ごしてみたい、其にはどうも此ごみごみした東京では駄目である。静かな山で花が見たい静かな寺で春の行衛が眺め度い、と念願する心が切になって来た。
と書いています。そして松山での句会に参加するため、3月31日の夜東京を立ち、4月1日朝、京都で途中下車し、その日の午前中の半日を、京都在住の弟子の案内による京都巡りに充てています。4月9日、松山からの帰途、虚子は再び京都で降りて、10日間、京の春を満喫しました。
春雨や少し水ます紙屋川 虚子(昭和2年4月)
紙屋川は鳴滝に源を発し、鷹ヶ峰を囲み、北野天神の西を流れて、桂川に合流する川です。天神社の脇を流れていることで、今では天神川が正式名称となっています。
中句の ”少し水ます” は、この句が松山での句会が終わり、帰途京都に寄ったときのもので、4月1日に見たときよりも水嵩が増していることを指しています。4月1日、虚子が最初に行ったところは円山公園の大枝垂桜でしたが、一輪も咲いていなかったので、弟子がまだ梅が咲いている北野へ行きましょうと案内したものです。
紙屋川の名前は、昔、この川の水で紙を漉いていたことに依っています。鷹ヶ峰で芸術村を営んだ本阿弥光悦も、この川で紙を漉いています。鷹ヶ峰には光悦寺という光悦垣で有名な寺がありますが、虚子はこの光悦寺にも足を伸ばしています。
母の逝きし年の紅樹の残る寺 游々子