俳句的生活(231)-虚子の詠んだ京都(9)祇園一力茶屋ー
京都四条通り、花見小路に入った南東の角に、紅殻色の壁の構えをした祇園屈指の高級料亭 ”一力茶屋” があります。
仮名手本忠臣蔵七段目祇園一力茶屋の場、大石内蔵助が目隠しをして大勢の芸妓と戯れる場面で、劇中もっとも華やかな舞台となっています。
この料亭は ”一見さんお断り” で夙に有名ですが、虚子はなんと常連客になっていました。そして手を打って「鬼さんこちら」と呼ぶ芸妓を 目隠しをして追う ”鬼ごっこ” 遊びも、虚子は内蔵助と同じようやっているのです。
朧夜や一力を出る小提灯 虚子(明治37年)
この句は実は三高時代の思い出を基にした回想句で、明治37年の時点では虚子はまだ、一力茶屋の馴染み客にはなっていません。その思い出というのは、虚子が京都に来て二回目の聖護院近くの下宿にいた時のもので、清水の料理屋でのある送別会の帰りに、祇園新地で花魁とすれ違った一齣を追想して作られた句です。二十歳ぐらいの出来事は長く記憶に残るものなのです。
虚子にとって一力茶屋は、子規の俳句の弟子で実業家になっていた人に、明治40年3月に連れて行かれたのが最初です。そして1か月後には、”虞美人草” を書くため京都に取材旅行に来ていた漱石をここに連れ出しています。この日二人は、虚子の投宿していた旅館でひと風呂浴びた後、都をどりを見物し、一力茶屋に向かい、夜更かしした二人は、一力茶屋の一間で十三歳の舞子二人と雑魚寝をしています。虚子は別の芸妓と懇意になりますが、この頃のことは、当時「ホトトギス」に連載していた小説に描かれています。
大石内蔵助は、本懐を遂げたあと、元禄16年2月4日(旧暦)に切腹をし、この日は ”大石忌” として、俳句では春の季語となっています。
虚子は自らが編んだ「新歳時記」の「大石忌」の項で次のような説明をしています。
ぼつぼつ花の噂も出ようかといふ三月二十日(もと陰暦二月四日)、京都祇園の万亭(一力)で、大石良雄の法要が営まれる。この法要の後、師匠及び名妓の舞の手向けがある。庭先に掛出しをしつらへなどして招待者に手打ち蕎麦・抹茶などを振舞ふのである。接待の名妓・舞子などの右往左往する様は一寸変わった修忌である。
一力茶屋での ”大石忌” は今も行われています。男子ならば一度は経験してみたい ”会席” です。
来吉はとくにあの世に大石忌 虚子(昭和34年)
来吉とは、維新の志士たちとも関係のあった芸妓で、虚子が一力に出入りしていた頃に知り合った老妓です。この句は昭和34年の虚子85歳の時に作られたものですから、中句の ”とくに(とっくに)” の措辞に実感がこもっています。
余談ですが、山科にいた内蔵助は、お家再興の可能性が無くなったとき、身籠っていた妻りくを離縁し、豊岡の実家に戻しています。そこで三男の大三郎が生まれるのですが、将軍が変わり義士の遺子への大赦が行われ、大三郎が12歳のとき、本家である広島浅野藩への仕官が叶いました。石高は父の内蔵助と同じ1500石で、破格の待遇を受けています。
大石忌では、京舞井上流家元である井上八千代も、代々師匠として舞を披露しています。現在は五世家元となっています。
井上の八千代の舞や大石忌 游々子