俳句的生活(230)-虚子の詠んだ京都(8)祇王寺ー

嵯峨野散策の奥に位置する祇王寺は、瀟洒な茶室風の庵と繊細な樹木・苔の庭が、祇王・祇女の物語と相まって、京都で最も人気あるスポットの一つとなっています。

祇王寺
祇王寺

大正11年12月、虚子たちは天龍寺から野々宮、落柿舎、祇王寺、二尊院と歩いた後、天龍寺に戻り、「即景十句」と呼ばれる現在の吟行に相当する句会を開いています。そこでの出句の一つに、祇王・祇女、更には仏御前の木像に ”若さ” を見つけたというものがあります。

木像に若き面ざし冬日影  虚子(大正11年12月)

祇王の木像
祇王の木像

大正12年3月の「ホトトギス」に虚子は次のような一文を載せています。

案内を乞うと、障子が開いて二十歳ばかりの尼が出てくる。座敷に上がると、縫物らしいものが散らかっている。尼の点した蝋燭の明りで見ると、木像は真黒な像であるが、而かも美しい、品のいい、若々しい顔であることがわかる。私は此の若々しい顔といふことを大発見した如く眺め入る。此物さびた小さい庵の中にかゝる若々しい像があることが、いかにも待設けなかったことのやうな心持がある。

祇王寺の留守の扉(とぼそ)や押せばあく  虚子(大正13年4月)

この句は、虚子が長男の年尾と嵐山・嵯峨野を廻ったときのもので、虚子がうっかり季語を入れ損なった句として有名なものです。虚子自身は無季の句は俳句ではない。無季の句は唯の十七字詩であるとして、余程中句を ”花の扉” に変えようかともしたのですが、結局このままで残ることとなりました。

ところで祇王寺についてですが、中世以降は衰退の一途をたどり、明治になってからは廃寺となりました。この時祇王たちの木像は大覚寺で保管されたことで、現代にまで残すことが出来ました。今の祇王寺というのは、琵琶湖疎水を作った京都府知事が、明治28年に自身の別荘を寄進して本堂とし、再興されたものです。ところが定住の住職を持つまでに至らず、若い尼僧が交代で留守居をするという状態で、虚子が上の二句を詠んだ頃は、そのように管理が不十分だったのです。

祇王寺は苔でも有名ですが、数年前の台風で楓などの樹木に被害が出て、強くなり過ぎた日差しで苔にも影響が出てきてしまい、寺では新たに樹木を植えることで対応するそうです。今では専従の職員さんが毎日、苔に落ちた葉を箒で取り除き、苔を養生しています。

千年の苔に沁み入る清水かな  游々子