俳句的生活(224)-虚子が詠んだ京都(2)虚桐庵ー

虚子が京都で選んだ最後となる5番目の下宿は、当時の三高の正門の前の、吉田神社から東大路に向かって伸びる参道の対面にある農家でした。三高は、戦後に出来た京大教養部のある吉田南キャンパスに、最初からその敷地があったように思われがちですが、最初は現在時計台がある本部キャンパスに位置していました。それが、明治30年に京都帝国大学が設立されるというときに、建物と設備を大学の方に譲り、自らは南側に移動したのです。

従って虚子の時代の三高の正門とは現在の京都大学の正門であり、虚子のいた下宿は、現在の吉田南キャンパスを少し入った農地の中にあったのです。

明治20年過ぎ、三高が造られた場所は、旧幕時代は尾張徳川家の藩邸があった処でした。尾張藩邸は元々は四条烏丸の北西の角にあったのですが、元治元年(1864年)の禁門の変で焼失したために、洛東の吉田村に土地を得て造ったものです。それが明治4年の廃藩置県で、京都府が所有するものとなり、明治20年代には農地になっていたものを、三高のために京都府が提供したという経緯です。藩邸としてはわずか10年足らずの命でした。

明治26年9月、虚子より1年遅れて、親友の河東碧梧桐が三高に入学して来ます。碧梧桐は虚子より1歳年上なのですが、松山の中学での入学と卒業は虚子と同じで、1年遅れて三高に入学したのは、前年に東京の第一高等学校の入試に失敗して、1年遅れて三高に入学したというものです。その碧梧桐が京都で選んだ下宿は、虚子と同じ下宿で、以後彼らはその下宿を ”虚桐庵” と呼ぶようになりました。残念ながら、彼等が ”虚桐庵” と名付けた下宿は、三高が吉田南キャンパスの地に移動したときに取り壊されていて、現在では跡形も残ってはいません。下のイラストは移転後の三高の正門を描いたものです。正門は現在有形文化財に指定されています。

三高正門
移転後の三高正門

碧梧桐との ”虚桐庵” での生活を、虚子は自伝「俳句の五十年」で次のように語っています。

たとへば、雪の大変降った揚句に俄かに思ひ立って、二人で雪の中を大原の寂光院を訪ねた事があります。といふ風に、それは必ずしも俳句を作るといふ、今日でいふ吟行といふやうなものをする為でもなく、俳句も出来れば作るのでありますが、しかしながら、唯山野を跋渉して歩くことが愉快なのでありました。

大原寂光院

私自身も、虚子と同じ年齢の時に大原までの20kmを徒歩で往復したことがありましたが、虚子の場合は草鞋脚絆で更に雪の中なので、さぞかし大変であったろうと想像します。

紅葉散る三十にして髪おろす寺  游々子

この時代の虚子の句は、俳句を始めてまだ数年というものですが、既に溌剌としたものを感じさせる句となっています。

傘かりて八瀬の里へとしぐれけり  虚子(明治25年)

瑠璃光院
八瀬瑠璃光院

京に寝よ一夜ばかりは時雨せん  虚子(明治26年)

この句には、「飄亭を吉田の庵にとどめて」という詞書がついています。飄亭とは五百木飄亭(いおきひょうてい)で子規の俳句の弟子。この時期、東京より子規の俳句の弟子が何人も虚桐庵に来ています。虚子編新歳時記には、例句として飄亭の「草の戸の我に溢るる初日かな」が掲載されています。

行年の松杉高し相国寺  虚子(明治27年)

相国寺
相国寺の松並木

行年(ゆくとし)は冬の季語。この季語により、相国寺の松並木は格調の高いものに仕上がっています。