山小舎便り(6)-令和5年6月6日ー

私が諏訪大社を、奥の深い謎めいた神社と思うようになったきっかけは、上社を取り仕切った神長官守矢という存在を知り、その資料館を訪れてからでした。

守矢資料館

この写真のように、建物からして縄文的でユニークなものです。更に内部での展示は、中世での御頭祭(おんとうさい)で生贄とされた鹿の頭部の剥製が壁に掛けられていて、既に農耕社会となっていた時代の神事として、違和感を抱かせるものでした。

資料館内部

昨日訪れた ”御射鹿池” や ”御射山” という地名は、鹿を生贄とするために、弓を使って捕獲した史実に基づいていることは明らかです。御射山というのは、霧ヶ峰の八島湿原の近くに、弓射を競った場所があり、茅野の上社の東には、御射山社という神社が出来ています。

神長官守矢が仕切った御頭祭は、どう考えてみても縄文的な祭祀です。諏訪・茅野地区は縄文の遺跡が多く、守矢というのはその流れを汲んだ在地勢力で、そこに稲作文化を持った出雲族が入ってきた、そのリーダーが、父親が出雲の大国主で母親を高志(今の北陸地方)の姫とするタケミナカタであったということでしょう。

弥生人の東進は、在地勢力と融和的に行われたののもあれば、戦闘を伴うものもあったのでしょう。諏訪の場合は後者。勝った側の出雲族が神氏(みわし)=諏訪氏を名乗って政治と祭祀のトップに立ち、負けた側の守矢氏がナンバー2として祭祀を仕切った、その祭祀には縄文色を濃く残して。

諏訪の物語を複雑にしているのは、二つの史実、すなわち出雲の国譲りとタケミナカタを祭神とする諏訪明神の創設を一体化していることに依っています。史実としての国譲り(大和王権による出雲征服)は紀元3~4世紀のこと、タケミナカタの諏訪侵入(稲作文化の伝搬)は紀元前3~6世紀のことで、一体化は史実としてはあり得ないのです。

謎とロマンに満ちた諏訪の物語、少しずつ現場を訪れてその空気に接してこようと思っています。