俳句的生活(4)-懐島ー

茅ヶ崎はかって懐島と称され、この地を治めた武将の館跡の碑が、今は神明大神宮となっている円蔵の地に建てられています。武将の名は大庭氏といい、大庭御厨を経営した血筋です。源平争乱があった治承寿永のころ、大庭氏には二人の兄弟がいました。兄を景義といい、弟を景親という兄弟ですが、この二人は、源氏と平氏に分かれてしまいます。世に名を知られているのは、平氏に付き、石橋山の戦いで頼朝を撃破した弟の景親です。が、結果として残るのは源氏についた兄の景義となりました。彼は保元の乱で義朝に付き、為朝の矢を受け、それが基で家督を弟に譲っていて、そのために、頼朝挙兵以降、武功で名を馳せることはなく、文治の面で初期鎌倉の経営に貢献しています。その彼が館を構えたのが、懐島でした。

茅ヶ崎には南から、柳島、中島、懐島と島の付く地名が残っています。これはおそらくこれらの土地が、相模川や小出川に囲まれた中洲であったことのある証左と考えられます。今テレビで話題の血洗島が、利根川の中州であったのと同じことです。

大庭氏は景義の子の時代に、和田の乱に連座し没落し、懐島は二階堂氏、更に北条氏の支配地となりました。室町期には鎌倉公方の支配地となり、江戸時代には幕府領と変遷しています。大きな大名の藩領とならなかったために、城下町というものがなく、農業と漁業の村として明治を迎えたのです。

鎌倉へ五六騎いそぐ春の坂 游々子

茅ヶ崎の大庭氏石像
茅ヶ崎の懐島館

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