満蒙への道(22)ー満蒙奥地探検(10) 梅棹忠夫(3)ー

梅棹のモンゴルにおけるフィールドワークは、各ゲルに遊牧民をたずね、どのように遊牧移動しているかを尋ねることから始まっています。そうすると、草が豊富にある草原の遊牧民であっても、草が貧弱な草原の遊牧民より移動回数が多いという事が結構あり、必ずしも草がなくなったから、別の草を求めて移動する、というようになっていなかった事に気付きました。

こうしたフィールドワークを通して得た梅棹の、モンゴル遊牧の起源に関する見解は、次のようなものとなりました。

”ステップ遊牧の起源は、北方森林から出てきた狩猟民が、ステップを彷徨する群居性有蹄類の群れと共生(シンビオンス)関係を結び、動物群の移動に従って、人間も移動するところに始まった、という仮説を私は考えた。そうすると、遊牧移動という現象は、もともと有蹄類動物の遊動に起因するものであって、人間の移動はそれによく適応したものに過ぎない、ということになる。実際、遊牧民の移動式家屋およびその生活様式全体が、極めて早い段階で遊牧的移動に適応したものと思われる。こう考えれば、彼らの遊牧移動を、草ばえなどの自然的要因による、合理的なものとみる必要もなくなるのである。”

憧れのモンゴルでの夢のような研究生活は、日本の敗戦により終止符が打たれることになりました。張家口には4万人の日本人が在住していたのですが、侵攻してきたソ連兵に対して、その時の駐蒙軍司令官が、東京からの武装解除の命令に従わず、ソ連兵と交戦して、天津までの列車運行を維持したため、全員無事に内地に帰還することが出来ました。梅棹のフィールドワークを整理したノートは30数冊に及んだのですが、それも失うことなく、持ち帰ることが出来ました。戦後、西北研究所の所員たちは、皆それぞれ一流の研究者となり、人生を全うできたのは幸いです。

昭和30年、京都大学は木原均博士を隊長とするカラコルム・ヒンズークシ学術探検隊を組織し、梅棹もその一員としてモンゴル人の末裔(モゴール族)を捜し歩いています。この探検隊の記録は、毎日新聞の撮影隊により映画となり、キネマ旬報で観客数3位となるほど、多くの日本人が映画館に足を運んでいます。この記録映画は、2010年に「DVDブック カラコルム/花嫁の峰チョゴリザ」として梅棹が監修者となり、京都大学学術出版会より刊行され、再び日の目をみることになりました。梅棹はこの探検の最後に、無断で一人、インドへ行っていて、昭和47年に行われた座談会で、木原隊長から、”ごっつい怒られた” と述懐しています。

昭和56年、梅棹は夫人を同伴して、36年ぶりに張家口を訪れています。感傷旅行と称する梅棹は、かっての張家口の記憶を、次のような描写で綴っています。

”北の草原からは、ラクダやキャラバンが降りてきた。それは遠い砂漠のかなた、ハミやトルファンなどという町から、干しウリや干しブドウを運んできた。そして、衣類や日用品などを積み込むと、また草原へ帰ってゆくのだった。長い長いラクダの列が、鈴の音を響かせながら、北のかなたへ消えてゆくのを、私たちは家の前のニレの木陰でいつまでも見送った。”