満蒙への道(21)ー満蒙奥地探検(9) 梅棹忠夫(2)ー

蒙古馬と並走麦の秋の汽車  游々子

梅棹忠夫は生粋の京都人です。彼は京都で生まれ、府立一中、三高、京都帝国大学と進み、大学を卒業したのは昭和18年9月でした。出陣学徒の壮行会が、雨降りしきる神宮外苑競技場で行われたのは、この年の10月21日でしたが、学徒動員は既に始まっていて、梅棹もこの年の春に徴兵検査を受け、加古川の戦車連隊に配属されることになっていました。この連隊は、後に司馬遼太郎が戦車兵として入隊し、満州に送られた連隊です。ところが梅棹は、幸運にもこのとき新設された大学院特別研究生という制度の第一回の要員に選ばれ、兵役義務は免除されないものの、入営期日が2年延期されるという恩恵を受け、念願の内モンゴルでのフィールドワークに参加することが可能になりました。

梅棹が嘱託として参加したのは、内モンゴルの入口である張家口に作られた西北研究所というところで、所長は梅棹より18歳先輩の、同じ京都人である今西錦司という人でした。彼らは、”山つながり” で、梅棹は、今西が隊長となった興安嶺探検にも、学生の時に加わっています。

当然のことながら、西北研究所は、”知の梁山泊” のようになりました。梅棹はその著書「回想のモンゴル」の中で、この時期の生活を次のように記述しています。

”毎晩が宴会であった。食事は粗末で、酒は安物のパイカルだったが、私たちの心は豊かだった。毎晩、今西さんを中心に話が弾んだ。それは宴会の席というよりも議論の席だった。モンゴルのこと、中国のことはもとより、世界中が話題になり、また、広い領域にわたっての学問上の議論が交わされた。議論はしばしば激しくなり、夜更けまで続くことが多かった。”

梅棹は張家口で、粛親王家の二人の貴公子と再会することになります。再会というのは、彼らは京都帝国大学に留学していたからです。粛親王家の始祖は、清朝二代目のホンタイジの長子で、清朝皇族の筆頭王家でした。鳥居龍蔵、きみ子夫妻を招聘した喀喇沁(カラチン)王妃は粛親王家出身でしたが、二人の貴公子にとっての、叔母、大叔母に当たる人でした。

愛新覚羅の宗家である溥儀が満州国皇帝になった後も、清朝の王家は中国にとどまっていました。粛親王家は当時、張家口の北のモンゴル草原に二つの牧場を所有していて、梅棹はそこに招待されています。南側の牧場まではトラックで行き、そこで数日、乗馬の訓練を受けて、100km離れた北の牧場には、数人のモンゴル人と一緒に、馬で1日で辿り着いています。途中立ち寄るどのゲルでも、羊乳から造られた蒸留酒が振舞われた、となっています。

張家口の地図
旅行のとも より