満蒙への道(20)-満蒙奥地探検(8) 梅棹忠夫(1)ー

祇園会や夕月かかる東山  游々子

満蒙奥地探検(1)で、日露戦争直後に三高生によって作詞された ”逍遥の歌” の3番の歌詞で、モンゴルのゴビ砂漠が詠われていることを紹介しましたが、モンゴルを研究テーマとした学究の中には、矢張りこの逍遥の歌を原点とする方が居られました。民族学・人類学の梅棹忠夫氏です。梅棹氏は、2010年1月28日付け産経新聞企画事業部のブログで、インタビュー氏と次のような会話を交わしています。

「先生の数々の京大学術探検、アジア・アフリカなどのフィールドワークで、一番印象に残っている地域はどこですか?」

僕がこう切り出すと、間髪をいれず、

「モンゴルや。内モンゴルも外モンゴルも行った。」

と返ってきました。

「青春の情熱のすべてを傾けた。傾け尽くしたところがモンゴルやね。」

(中略)

「でもなぜモンゴルやったんですか?」

僕が聞きました。梅棹さんは嬉しそうに歌い始めるのです。

千載秋の水清く
銀漢空にさゆる時
通える夢は崑崙の
高嶺のかなたゴビの原

明治38年の三高逍遥歌「紅萌ゆる丘の花」の3番の歌詞です。

「今西先生も、あの時代に山をやっとった人たちは、みんな、中央アジアが憧れやった。君も学生のころ、山で歌うて知っとるやろ?」

中央アジアー。モンゴルや崑崙の山々、チベット高原への憧れは、今なお連綿と続いています。

とブログには書かれています。このインタビュー時、梅棹先生の年齢は89歳でした。

「文明の生態史観序説」を発表後、大阪市立大助教授のころの梅棹氏=1961年、京都の自宅
朝日新聞GLOBE+より
学生たちのたまり場だった旧梅棹邸。次男で陶芸家のマヤオさんは「くつろいで展示を含めた空間を楽しんでほしい」という
=京都市左京区、楠本涼撮影
朝日新聞GLOBE+より