俳句的生活(186)ー日本太古の暦ー

旧暦と言われる太陽太陰暦は、推古朝あるいは欽明朝に、中国の暦が百済を経て日本に伝わったものですが、日本には、それ以前に、満月を月の初めとする暦があったと、俳人の長谷川櫂さんが、名著「俳句的生活」の第7章の ”時間” という中で述べています。その痕跡となる例として長谷川さんは、

小正月: 旧暦1月15日の満月の日を、年の始まりの日として祝ってきた。

お盆: 小正月から半年後の、旧暦7月15日の満月の日を、先祖を祀る日としてきた。

七夕: 日本古来の七夕は、8日後の7月15日の満月祭に備えての、禊の行事であった。

芋正月: 仲秋の名月に、芋や栗を供えるのは、縄文時代の収穫祭の名残である。

を挙げ、全てが満月の日を中心に重要行事が行われていたことを、長谷川説の根拠としています。確かに月の初めを、新月ではなく満月とした方が、人にとっては判り易く、合理的であったともいえます。

では何故、大和朝廷が中国の暦を取り入れたかということですが、それは中国では既に天文学が発達していて、太陽の運行の中に、月の満ち欠けを組み込むことに成功していたからです。それは二十四節気と呼ばれるもので、春分・秋分・夏至・冬至を、実際の太陽の高さに合わせておいて、1年を24分割して節気としたものです。こうした暦は、狩猟採集の時代では必要でありませんでしたが、農耕においては必須のものでした。二十四節気の暦をまだ持っていなかった日本では、例えば、山の雪が溶けて、馬の模様の岩肌が現れたときに田植えをする、というような方法で、農耕作業をしていました。

日本太古の暦には、1万年以上続いた縄文時代の精神=アニミズムが濃密に反映しています。俳句という超短詩型の文芸は、このアニミズムに寄り添って、実生活で使っている新暦=季節感無視の暦に、少しでも彩りを添えるものであると言えます。

明治6年に採用した新暦の取り扱いには、細心の工夫が必要です。平塚の七夕は、新暦の7月7日としているため、このところ毎年、梅雨の雨によって中止となっています。仙台のように、月遅れの新暦8月7日とするか、あるいは思い切って旧暦の7月7日に実施するかのどちらかでしょう。私は旧暦7月7日を採用することを望んでいます。

アルプスは代馬消えて青田風 游々子