俳句的生活(185)ー登象ー

鶴嶺通りを走る神奈中バスに、「登象」という一風変わった名前のバス停があります。享保の時代に、将軍吉宗に献上された象と、関係したものであろうところまでは推測出来るのですが、象は東海道を進んで来ているので、茅ヶ崎地区だけ、なぜ東海道と離れたところに、象の名のつく地名があるのか、疑問が湧いてきます。私の推測ですが、家康が関東入府した直後に行われた検地の記録として、既に ”のほりそう” という地名があり、それが享保の象の行進の強烈なインパクトで、“登象”という漢字が当て嵌められたのではないかと思っています。

吉宗は好奇心の旺盛な将軍で、前将軍のときに、オランダ商館長が献じていた書籍を倉庫より取り出して、そこに記載されている象のことを知っていました。吉宗が象を見たがっているという噂が、長崎で商売をしている清国商人に伝わり、清国の商船で連れてこられたのが、享保の象ということです。

享保13年6月に、長崎に陸揚げされた象は、翌享保14年3月に江戸への旅を開始します。途中の大きな川である大井川と馬入川は、浅いところを徒歩で渡り、木曽川は舟で、六郷川(多摩川)は舟橋を渡って、江戸には5月末に到着しています。

象の行進は、朝鮮通信使やオランダ商館長の道中に負けないくらいの大フィーバーを巻き起こしています。京都では御所にも参上し、「象」をお題にしての、天皇も参加する歌会が催されました。中御門天皇の御製は3首残されていて、そのうちの一つは、

時しあれば他の国なる獣を けふ九重に見るがうれしき

というものです。

江戸に到着した象は、浜御殿を住処とし、到着の2日後には江戸城へ参上し、吉宗に謁見しています。この時点での象の年齢は8歳でした。象はその後13年生きて、21歳で死亡しています。

象が神奈川で泊まった処は、小田原、平塚、戸塚の3つの宿場です。広島や名古屋といった城下町では、藩主が象を見物しているので、それなりの記録が残っているのですが、茅ヶ崎は、城下町でも宿場町でもなかったために、登象という地名以外に、何の資料も残っていないということになってしまいました。

春風や暴れん坊の居る処

Elephant came to Kyoto, Japan from Vietnam in 1729.jpg
河鰭実利 – 『象之図』、国立国会図書館所蔵。国立国会図書館デジタルコレクション: 永続的識別子 2543109, パブリック・ドメイン, リンクによる