俳句的生活(172)ー春への憧れー

”Komm, lieber Mai(来たれ 愛しき 5月よ)” で始まるモーツアルトの歌曲「春への憧れ」は、ヘ長調の明るいメロディで、喜びに充ち溢れた曲です。ケッヘル番号は、K596で、モーツアルト最晩年のものであるにも関わらず、これほど軽快なピアノ曲を作曲し得たことに、彼の本質が感じ取れます。この曲は、シュヴァルツコップのような著名なソプラノ歌手によって歌われたものを、ユーチューブで聴くことが可能です(添付1)。また、ピアノは初中級者向けに編曲されたものもあって、幅広い層で楽しめるようになっています。

モーツアルトの作曲から120年余りのち、日本では、大正二年に新作唱歌として、「早春譜」が作詞作曲されました。作曲は中田喜直の父親である中田章によるのですが、出だしのメロディは「春への憧れ」と酷似しています。先日、NHKラジオの、弾き語りfor you という番組で、ピアニストの小原孝さんが、この二つの曲をミックスして弾いたのを聴きましたが、何の違和感もありませんでした。

本稿で、何故この曲を取り上げたかというと、「早春譜」の歌詞の二番の冒頭の、

氷解け去り葦は角ぐむ

に着目したかったからです。古事記以来、日本は ”豊葦原の国” と呼ばれ、葦は至る所で生育していました。俳句の世界でも、葦の角、葦の芽、角ぐむ葦、葦牙(あしかび)などが季語となってきました。”角ぐむ”のように、名詞を動詞化した言葉が創られたのも、日本語の素晴らしい進化であったと思います。

更に茅ヶ崎には、”あしかび” を俳号とした俳人・歌人であり郷土史家であった人が居ました。本ブログで既に何度も取り上げた 鶴田栄太郎 という人です。鶴田家は江戸時代から続く円蔵の旧家です。栄太郎さんだけでなく、祖父の代より文人であったことが、墓誌に刻まれていますので、それを紹介するのが、本稿の主旨です。

鶴田家の墓地は、俳句的生活(136)和合神の句碑で紹介した山王社の前の道を、東に進み、相模線の踏切を越して、少し進んだ左手にあります。踏切の名前が、鶴田第一踏切 となっているのには驚かされます(添付2)。墓地の一番の手前には、栄太郎夫妻の、黒石で出来た洋風の墓碑が置かれています。この墓碑は、栄太郎の供養に妻の桃世さんが建てたもので、桃世さんの没後に、その名が追刻されたものです。墓碑には、桃世さんの次のような歌が刻まれています(添付3)。

わが門に立てば野の道曲がり道 帰ることなき亡き夫おもふ  桃世

墓地の左奥には、栄太郎の祖父の栄助さんの墓碑があります。右側面には、次のような辞世の歌が刻まれています(添付4)。

辞世 迷い来しこの世をさりていや遠く みだの浄土に行くぞうれしき

栄太郎の父親は久吉さんといい、その墓碑は、栄助の右横に置かれています。久吉は一宝という俳号を持つ俳人でした。碑の一面には、桃世さんの筆による一宝の句が刻まれています。

住みなれし里も都ぞ桃の花  一宝 久吉  桃世書

更に碑の他の一面には、11歳で亡くなった栄太郎夫妻の娘(ほたか)を追悼した母桃世の一首が彫り込まれています。

逝く蝶や百合も野ばらも咲くものを をしまれし子のけふは命日  母 桃世

栄太郎は昭和43年に80歳、桃世は昭和61年に89歳、久吉は昭和12年に79歳、栄助は明治42年に90歳で亡くなっています。長寿の文人一家でした。

5月という月で思い出すのは、1968年5月の、パリのカルチエラタンで起こった学生運動です。街路樹のプラタナスの新緑がまぶしい季節でした。同じ年の8月には、ソ連の戦車隊によるプラハの春を蹂躙するという暴挙が起こりました。

あとひと月もすると、二十四節気は穀雨となり、七十二候は葭始生(あしはじめてしょうず)となります。旧暦では三月二十日、晩春です。

あしかびにそよぐる風もヘ長調

添付1
鶴田踏切
添付2
鶴田栄太郎・桃世夫妻の墓
添付3
鶴田栄助の墓
添付4