俳句的生活(112)-信隆寺の鰐口ー

私の自宅から最も近いお寺は、一国と産業道路の交差点のところにある、信隆寺という日蓮宗のお寺です。大晦日には、この寺で撞かれる108の除夜の鐘の音が聞こえてきます。本稿は、この寺が、甲斐の武田氏と繋がりがあるということを紹介しようというものです。

今宿には、今井という姓の家が何軒かあります。10年近く前になりますが、この今井さんから、自分の家のルーツは武田の家臣で、甲斐から移り住んだものである、というお話を伺ったことがあります。このことを実証する唯一のものが、今、信隆寺に遺されています。それが鰐口です。

鰐口とは、本堂玄関の軒先に吊るされている仏具で、垂らされている紐で鼓面を打ち、誓願成就を祈念するというものです。信隆寺の鰐口には銘が刻まれていて、寛永元年(1624年)、甲斐武田氏の一族である武田信就が出家して開基信隆院日閑と称し、祖先の菩提をとむらうために、この寺を建立したとなっています。武田信就という人は、父親が武田信玄の従弟にあたる人で、一族は天正十年(1582年)武田氏が天目山で滅亡した際に亡くなっているのですが、信就はその場を落ち延びて生き続けたのです。死亡が1656年となっていますから、天目山の時にはまだ小さい子供であったのでしょう。

信隆寺は、昭和20年7月16日夜の平塚大空襲のとき、焼夷弾を落とされ、本堂、講堂すべて全焼し、過去帳その他一切の資料を失っています。(平塚空襲は、米軍の記録では、平塚には40万発の焼夷弾が落とされ、茅ヶ崎は茅ヶ崎町の調査で、千発の焼夷弾に見舞われたとなっています。)鰐口が戦災を免れたのは、調査研究のため、たまたま本堂玄関の棟から外されていたことに依ります。空襲の時、当時の住職の奥さんは、この鰐口と日蓮大聖人像を背負って田畑の中に避難したそうです。

信就は自ら開基となりましたが、開山には日意上人という人を招いて寺を興しています。現在の住職さんは二十八世となっていますが、武田氏がその後どうなったのか、分かる様であれば伺ってみたいものです。

鰐口の音や初雀大空へ

信隆寺
鰐口
茅ヶ崎市史5より