俳句的生活(111)-砂丘ー

先日、中海岸から高砂まで自転車を走らせたところ、個人の一軒家の敷地を造成している処に遭遇しました。1mぐらいの深さまで掘られていたのですが、断面が100%、砂地になっていて、このエリアは本当に砂丘地帯であることを再認識しました。

茅ヶ崎は、一国より南には、何本かの砂丘が走っています。おそらく一国が一番北側の砂丘だと思いますが、千の川が高田の方から南に流れてきて、それが一国を越えられずに、関東大震災前までは、鳥井戸橋まで茶屋町の家並のすぐ北側を流れていました。現在の川筋は、改修工事に伴い、少し北側に移動したものです。

関東大震災では、茅ヶ崎は総戸数3千数百のうち、3分の2が全壊、3分の1が半壊となっています。神社や寺院のような堅牢な建物も全て倒壊してしまいました。砂地の上に作られた建物ですから、これは必然だったのでしょう。同じ事情は現在にも当てはまると思われます。関東大地震と同じ規模の地震に見舞われたら、建物そのものは、大正時代よりも強化されていたとしても、地盤の事情は全く同じであるからです。

昨日10月14日は鉄道記念日でした。新橋(現在の汐留)から横浜(現在の桜木町)まで、汽車が走った日です。大政奉還が慶応3年の10月14日でしたから、それからの近代化、ジャスト5年で鉄道を通したのは、驚異的な速さです。テレビで特番がありましたが、茅ヶ崎で家を作る時のヒントが放送されていました。それは、新橋から品川までは、鉄道建設に反対する西郷の薩摩藩邸があり、陸上でレールを敷くことが出来ず、やむなく海上に堤を作り、そこに線路を走らせたことです。その工法は、幕府が品川沖に台場を作ったときの工法を採用したもので、丸太の杭を海底に打ち込み、その上に盛り土をして周囲を石垣で固めるというものでした。この工法で、関東大震災には、台場も海上堤も、被害を受けずに済みました。この海上堤は、現在の山の手線新橋・品川間で今も使われています。

もし茅ヶ崎でこれから家を新築するとすれば、北部の台地を除いて、杭を打つ工法を取り入れないと、新築といえど、倒壊するリスクは極めて高いでしょう。これは、砂丘地帯だけでなく、私の家がある相模川の沖積地帯にも、同じことが当て嵌まります。かって、自宅の近くで地質調査したことがあり、ボーリングを打って岩盤に届くまでの深さを測定したところ、5mという結果が出てきました。この5mの層は、相模川が運んできた砂礫なのです。相模川の旧橋脚は、地盤の液状化によって出現したものでした。関東大震災並みの地震が起これば、同じ現象に見舞われるでしょう。ブラタモリが言うように、台地の際が、一番の居住地域であるようです。

白蝶の出ずる処は太平洋

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百楽兎 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

ウィキペディアより引用「鳥取砂丘」