俳句的生活(110)-玉縄城ー

茅ヶ崎方面より鎌倉に至るルートは、西行の頃より長らく、砥上が原を片瀬まで行き、稲村ケ崎を越えて入るというものでした。これには、江ノ島に弁財天があり、そこに人が多く集まったことに依ったものでしょう。ところが、北条早雲が、大船に玉縄城を築き、ここを拠点にして三浦半島への進出を図るようになると、メインルートが海岸を離れて、江戸以降の東海道に近いものに変化していきました。鎌倉中心部への道は、北鎌倉から建長寺前を通り、巨福呂坂の切通しを経由してのものとなりました。現在は巨福呂坂トンネルができ、鎌倉の動脈道路となっています。

玉縄城は北条氏にとって、小田原に次ぐ第2の主要居城で、この築城は茅ヶ崎にも大きな影響を与えました。小田原より東、玉縄までは完全に北条氏が支配するところとなり、この地域の武士団を家臣として北条体制に組み入れていったのです。彼らには知行地を割り当て、その価値を貫高で評価し、軍役、年貢、夫役等々を北条氏に貢納させたのです。領主たちの性格は、江戸時代の代官と旗本を併せ持ったものでした。この武士団は小田原衆と呼ばれ、560の衆がありました。この小田原衆に割り当てた貫高を記したものが、所領役帳というもので、氏康が完成させています。

貫高制における銭1貫は、米換算で2石に相当します。萩園には100貫が割り当てられています。200石ということですから、天保のころの700石より大分生産力が劣っていたことになります。この貫高制、永楽銭が使われていたのですが、銭が国産化されていないこともあって、秀吉の検地からは石高制へと変わっていきました。

小田原城は、秀吉の征服にあう前には、上杉謙信や武田信玄も、包囲戦を展開しています。彼らも茅ヶ崎の地を通過しているのです。玉縄城は、家康の関東入部後は、腹心の本多正信に与えられました。ところが石高はなぜか1万石でしかありません。漢の劉邦が天下を取ったあと、才ある韓信や張良を恐れたのと同じことであったのかも知れません。玉縄城は元禄まで続き、廃城となっています。

蘆原に築きし新都鳥帰る

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不明 – 小田原城天守閣所蔵。http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/Leisure/Castle/j_kouen.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

ウィキペディアより引用「伊勢宗瑞 像(小田原城所蔵)」