俳句的生活(109)-後北条氏の女たちー

戦国の女といいますと、お市の方の娘である浅井三姉妹がつとに有名ですが、関東に覇を唱えた北条氏も、全盛期の氏康(三代目)の時には、3人の娘を、今川氏真、武田勝頼、足利義氏(古河公方)に嫁がせています。3家とも戦国大名の地位は失いますが、その血筋は高家旗本、あるいは小さな大名として江戸時代を生き抜き、現代にまで繋がっています。

北条の本家は、小田原開城のあと、五代目の氏直が高野山に配流となりますが、従弟を養子として、河内狭山藩となり、1万1千石の小大名ながら明治へとつながり、戦前は子爵、戦後は創価学会の会長を務めた北条浩へと続いていきます。

北条は小田原滅亡後も、その一族は関東に多く残っていました。茅ヶ崎に最も近い北条の城は鎌倉の玉縄城ですが、二代目城主には、氏康の妹が嫁いでいます。その系統に、北条氏重という人が居ます。将軍家光の代に、掛川3万石の藩主となった人です。氏重は5人の女子を設けるのですが、このうちの一人が、1700石の旗本であった大岡忠高に嫁ぎ、忠相の母親となっています。3万石と1700石では釣り合いが取れないのですが、娘が忠高に嫁ぐ前に、氏重は鷹狩の最中に落馬して急死したため、男子が居ない中、急での養子縁組が認められず、改易処分を受けたのです。娘は氏重の一族で、大目付を務めている2000石の旗本家より大岡家へ嫁いで行きました。

東山紀之さんが越前を演じたテレビドラマでは、町奉行となった後も両親と同居していますが、忠相は9歳のときに一族のところに養子に出ていますので、全くのフィクションです。また嫁も、忠高の同僚旗本より娶っていますが、忠相は婿養子で出て行っているので、これもまたフィクションなのです。

玉縄は今では城があったことはすっかり忘れ去られ、早咲きの桜の場所として知られています。この桜は、フラワーセンターで開発されたもので、桜のトンネルとなる道路が出来る程、地元では普及しています。

釣り合ふて目出度き婚儀江戸の春

玉縄桜
yoritomo-japan.comより引用
大船フラワーセンターの玉縄桜