俳句的生活(108)-反軍演説ー

関東大震災が起きる前まで、茶屋町の江戸屋の一つ西隣に、井桁屋という屋号の旧家がありました。明治期のご当主は、嘉永4年(1851年)生まれの岡崎安之助という人でした。維新後に横浜へ出て商売を成功させ、そこで10人を超す子女を生すのですが、そのうちで歴史に名を残す人物が二人輩出します。長男の久次郎と10男の勝男です。久次郎は、斎藤隆夫の反軍演説を、所属する民政党でただ一人支持した代議士で、勝男の方は、ミズリー号上での降伏文書調印に、重光外相の随員として立ち会った外交官です。

久次郎は、明治7年に横浜で生まれます。東京高商(現一橋大学)を卒業後、三井物産を経て、個人の輸入商社を創り、それが第一次大戦の好景気に乗り、鉄成金と称されるほどの大富豪となりました。相模鉄道の創設でも出資し、初代の社長となっています。茅ヶ崎では、高砂の現在NTTがある辺りに、広大な別荘を構えました。

政治家(代議士)となるのは大正元年からですが、昭和3年の選挙より、萩園出身の山宮藤吉より地盤を譲られ、茅ヶ崎を含む神奈川3区からの議員となりました。所属は民政党で、3年後、満州事変が起きる直前に、民政党内閣である濱口雄幸が凶弾に倒れるという事件が起きています。

昭和15年、日支事変が起きて3年後、泥沼化した中で、3月2日、民政党代議士の斎藤隆夫が、「支那事変処理を中心とした質問」といういわゆる反軍演説を行いました。昭和天皇に、3か月で片をつけると上奏して、戦争拡大した陸軍でしたが、全くの泥沼状態となり、これをレビューするという行為は、遅きに失したものです。ところが演説の翌日より、民政党の中から離党勧告が出され、斎藤はこれは受諾するのですが、追い打ちをかけるように出てきた議員辞職は断固拒否しました。辞職しない斎藤にたいして、3月7日、議会は除名の可否についての投票を行うことになりました。民政党は除名賛成に党議拘束をかけるのですが、岡崎は民政党でただ一人反対し、脱党していきました。投票結果は、賛成296名,空票144名、反対7名、でした。この決議のあと、聖戦貫徹議員連盟なるものが作られ、民政党も政友会も解党して、大政翼賛会がつくられ、戦争に反対する勢力は皆無となったのです。久次郎の死亡は、昭和17年3月20日で、シンガポール陥落の1ケ月後のこと、日本が未だ戦勝に酔っている時でした。

弟の勝男は、茅ヶ崎小学校、厚木中学を経て、一高、東大と進み、戦後第3~5次吉田内閣で外務大臣を務めています。ミズリー号での降伏調印を外相随員として経験し、6年後には講和条約を外相として迎え、独立を果たしたことは、感無量のものであったに違いありません。

ふるさとの反骨人や冬鷗

Surrender of Japan - USS Missouri

ウィキペディアより引用
「降伏文書調印式に出席する岡崎(2列目左から2番目のシルクハットの人物)」