俳句的生活(105)-終戦覚書ー

今、私の手元に、「終戦覚書」という題が付けられた、俳句手帳程の大きさの、文庫本があります。ページ数はわずか61ページですので、ポケットに入る小冊子と言ってよいものです。昭和23年初版発行で、定価は30円。昭和19年6月のマリアナ失陥から、昭和20年8月15日の玉音放送まで、この小さな本に、実に細かく且つ正確に、当時の指導部の行動が詰まっています。記録した主は、高木惣吉という元海軍少将で、茅ヶ崎には昭和7年から54年まで居住していました。

高木は熊本県人吉出身の人です。家が貧しくて中学にいけず、働きながら通信教育を受け、入試資格を問わない海軍兵学校へ進学しました。海兵43期で、山本五十六より11期あとの人です。のちに海軍大学で学びますが、ここは首席卒業で、恩賜の長剣を拝受しています。

高木が注目を浴びるのは、昭和19年8月、東條内閣が倒れ小磯内閣が生まれた時に、上司である海軍次官井上成美(しげよし)大将(当時中将)より、終戦工作の密命を受けたことによります。活動を仕易くする為、軍令部に居ながら海軍大学研究部員という肩書に替わりました。

終戦覚書を読んでの最初の疑問は、どのようにして最高首脳の発言内容をゲット出来たのかということでした。天皇が臨席するような会議に、少将クラスの者が同席できるものでないからです。当時の6首脳というのは、総理、外務、陸海軍、参謀本部、軍令部の大臣、総長でしたが、彼らは会議終了後、自分の持ち場に戻ったあと、側近たちに会議の状況を喋っているのです。高木の人脈はそういう処にまで繋がっていて、情報はそういう処から得たものだったのです。情報の一部は、井上の更に上司である米内海相からのもあったに違いありません。高木は克明にメモを残すタイプであり、茅ヶ崎が本格的な空襲に遭わなかったことにより、膨大な量のメモ類が戦後に遺されました。終戦に至る過程については、数多くの本が出版され、何本もの映画も作られていますが、一次資料は、寸分狂わず高木が遺したものなのです。

終戦覚書のなかで、高木は痛烈に指導部を批判しています。「、、統帥首脳の日々の仕事ぶりはまた、後世までの笑草であった。毎朝々々、長々しい事務的戦況報告や、形式的会議に貴重の時間を空費しながら、春風駘蕩、あたかも外国の戦況でも研究している姿であった。。サイパンが取られても、レイテが駄目になっても、マニラに米軍が入城しても、沖縄が怪しくなってきても、わが大本営の最高首脳たちは何の反応も示さなかった。。」

昭和天皇の玉音放送の、耐え難きを耐え忍び難きを忍び というフレーズは、玉音の原稿を用意した側近によるものかと思いきや、最後の御前会議で下す聖断で、天皇自ら発せられたものであることも、終戦覚書によって判ります。

高木は、肺湿潤という病気を抱えていて、それが昭和7年に茅ヶ崎に転居してきた理由でした。茅ヶ崎から東京まで、空襲下の中通勤していたのです。茅ヶ崎での初めの住居は中海岸で、上原謙の家の近くでした。昭和34年に東海岸北一丁目、高砂緑地の少し南の所に敷地を購入し、昭和40年に住居建築しています。高木は昭和54年まで茅ヶ崎で過ごし、85歳で亡くなりました。墓地は鎌倉の東慶寺で、西田幾多郎の墓の隣りとなっています。

出身地の人吉市には、高木惣吉記念館が造られていて、膨大な資料はそこに保管されています。国会図書館への寄贈も始まっています。現在、館長をされているのは、高木より23歳年下の従弟の娘さんで、偶然にも私と同じ年齢の方です。電話でお話をさせて頂きましたが、若々しいお声の方でした。

うぐいすの声またひとつ東慶寺

高木惣吉
「海軍少将 高木惣吉」より