俳句的生活(71)-明治天皇の東京行幸ー

藤間柳庵が文書として遺したものに、「雨窓雑書」の他に、「太平年表録」というのがあります。これは、嘉永六年(1853年)のペリ―来航から始まり、幕末に直接体験した激動の出来事を記述し、明治元年(1868年)10月、天皇が江戸へ向かうのを沿道で拝送した、というところで終了しています。柳庵は、この一か月前に、徳川亀之助(家達)の一行が静岡藩となった駿府に向かうのを見送っています。将に、旧時代から新時代にスイッチするところで、太平年表録は終わっているのです。

天皇一行が京都を出発したのは9月20日で、茅ヶ崎を通過したのは10月10日でした。当然のことながら、馬入川に舟橋を掛けて渡河しました。その時の絵が残っていないかと探したのですが、残念ながら見つけ出すことが出来ませんでした。多摩川の渡河については、錦絵がありましたので、それを添付致します。行列は、乗馬の公家の一団を先頭に、立ち烏帽子の銃卒、諸用具、公家、大名諸侯、錦旗を立てた天皇の神輿、警護兵と続き、総勢3300人という人数でした。亀之助の一行が100人であったのとは大違いで、沿道の人達もその違いを、直接肌で感じたに違いありません。一行は、南湖では本陣松屋の佐藤家に、小和田では新倉家で小休止しています。小和田には「明治天皇御小休所阯」という記念碑が建っています。

茅ヶ崎を発った天皇一行が江戸に入るのは、2日後の10月12日です。当時、江戸民衆の新政府への反感はすさまじく、「京錦東へ来ては色もさめ、これより先は二束三文」 とか、「上からは明治だなどといふけれど、治明(おさまるめい)と下からは読む」などの狂歌が作られていました。こうした市民感情を和らげるために、新政府は、なけなしの金をつかって、市民に酒肴を配るという措置を取ります。一町に一樽の酒と、するめ烏賊といったものです。祭好きの市民は山車や屋台を繰り出して、”日夜をいはず戸々に宴飲舞踏”したということです。

萩園の和田篤太郎もそうでしたが、藤間柳庵も、名主の上に立つ人が、200年以上続いた旗本から、新政府が任命した役人に変わったことで、急激に村営の熱意を失っていきました。企業でもそうですが、自分と合わない人が上司になった時はつらいものです。

王政といへど旧腐の轡虫

武州六郷船渡図 Bushu Rokugo funawatashi no zu.jpg
月岡芳年 – 武州六郷船渡図 Bushu Rokugo funawatashi no zu 1868 新潮社『日本精神講座』第一巻 口絵 1933, パブリック・ドメイン, リンクによる

ウィキペディアより引用 「明治天皇の多摩川渡河」