俳句的生活(69)-茅ヶ崎の旗本(2)ー

本稿の旗本は、柳島を本貫地とする戸田氏です。幕末の戸田肥後守については、藤間柳庵の稿で既に紹介済みですが、もう少し詳しく綴ってみることにします。

戸田氏は他の旗本と同様に、家康の関東入りの時に、三河より移って来ます。最初は柳島村と矢畑村で200石の知行地でしたが、徳川が天下を取ったあと、これも他の旗本と同様に知行地が増えていき、三代目の時に1500石となり、そのまま幕末まで続くことになります。

戸田氏は代々鷹匠頭の家でしたが、幕末の政治的動乱で、新たな職務が与えられます。時の当主である勝強(かつきよ)が目付をへて新設の歩兵頭に任じられたことで、同時に肥後守を称することを許されました。元治元年(1864年)のことです。知行高もこれまでの1500石から2000石に加増されました。彼は更に、鳥羽伏見の直前に陸軍奉行並と昇進していきます。

ここで幕府の軍制について簡単に触れておきます。ペリーの来航まで、幕府の軍隊というのは、大番組と称する旗本の寄せ集め部隊で、200数十年間、変わることなく続けてきたものです。外国からの脅威でようやく洋式に転換しようとしましたが、保守的な井伊直弼により一旦頓挫し、長州との戦争を前にして、ようやく歩兵部隊が創設されました。部隊を構成する兵は、旗本の家人および知行地の農民(500石につき1人)で、士官は旗本の子弟が就きました。慶喜は積極的に歩兵部隊を強化しようとし、フランスの軍事顧問団に訓練をさせるのですが、何分にも時間が足りず、訓練不十分で実戦経験もないまま、第二次長州征伐や鳥羽伏見となってしまったのです。

一方、薩長の方はといえば、武器商人グラバーが、アメリカ南北戦争終了で不要となり、大量に獲得した銃を、坂本龍馬の斡旋で入手することができ、大村益次郎による洋式兵制の歩兵部隊とリンクして、幕府以上の軍事力をもつことになったのです。第二次長州戦争で、戸田勝強の歩兵部隊は、周防大島の戦闘に加わりますが、敗退し、戸田自身も、幕府軍艦の応援で、なんとか島を脱出したという状態でした。

鳥羽伏見では、主将格の慶喜が、真っ先に大阪城より軍艦で江戸にもどったので、残された幕府軍の将兵は大混乱に陥りました。戸田勝強は紀州まで陸路を逃げ延び、和歌山の浜で和船を借り上げて、10日を掛けて浦賀に到着したということです。

江戸城が官軍に明け渡されてからの旗本たちは悲惨でした。6月、戸田勝強は、知行地の名主たちを江戸の戸田屋敷に呼び出して、戸田家の身の処し方を告げています。母親は実家の足利に預け、自分たち夫妻は戸田本家の宇都宮藩の世話になることとし、息子は徳川を継いだ家達の静岡藩に奉公することを願い出ることとしました。更に、二人の娘については、二つの知行地(うち一つが柳島)の名主に預かってもらい、養育から将来の縁談までを委託したのです。

過日、藤間資料館で、説明員のTさんとこの話をして、藤間家で預かった娘さんがその後どうなったかを質問したのですが、残念ながら、Tさんはそこまでは把握されていませんでした。が、孫になる方は、慶応大学を出て三井物産の参与になっています。そして慶応の後輩で、茅ヶ崎市で市史の編纂に携わった人が居て、そのつながりで、昭和50年代初頭に藤間家を訪問し、「…祖母がお世話になりました」と謝辞を述べています。佐久間象山が撮影したという戸田肥田守勝強の肖像写真は、その折に藤間家に贈られたとのことです。

朝顔や職無くしたる父戦後

戸田肥後守
茅ヶ崎市史ブックレット15より