俳句的生活(67)-平太夫新田ー

萩園と相模川の間に、平太夫新田という地区があります。一風変った地区名(村名)ですので、その由来を調べてみました。平太夫とは、松下平太夫といって、豊臣の家来だったらしく、関ケ原の前後にこの地に入り、荒地を開墾して、新田の付く村名となったということです。八幡社には平太夫の供養塔が作られています(添付)。塔の側面には、明治35年に横浜の平井さんという人の創建であることが刻まれています。八幡社の直ぐ近くには、同名の方の大きな屋敷がありますので、何らかの繋がりがあるのでしょう。

天保時代の記録ですが、平太夫新田の戸数はわずか10戸で、その石高は、24石となっていて、一戸あたりの石高は、茅ヶ崎23村の平均の半分となっています。相模川の洪水の影響はかなりのものだったと、推測できます。

地図を見てみますと、平太夫新田の南側は、平塚市と接しています。平塚の須賀地区とですが、その境界線が直線になっていますので、人工的なものを感じます。

ここから、一国の南側のマリーナまで、市域としては平塚市となっています。今、銀河大橋から下流の相模川左岸では、堤防の新築工事が行われていますが、平塚市域となっている河川敷には、平塚に事務所を持つ会社が事業を行っていて、その出入口での堤防新築は、手が付けられない状態となっています。立ち退き命令が出ているそうですが、何年も膠着状態となっています。

一方、その近くには、河川管理をしている国土交通省の、城山ダムの放流に注意との、案内板とアラートの施設が設置されています。2年前の台風19号の教訓が生かされず、いまだに大雨予想がある時の、ダムの水の事前放流については、何も進展していないようです。

圏央道建設の時もそうでしたが、西久保にジャンクションを作るにあたって、一部の地主が土地提供に協力しなかったため、何年も開通が先延ばしとなってしまいました。

今の日本は、戦前の国家統制へのアレルギーで、極度に、国による私権制限を忌避するようになっています。公共の利益のためには、一時的な私権の制限は受容すべきだと思います。コロナ対策もヌルヌルでした。今からでも遅くないですから、ワクチン接種の義務化ぐらいのことには踏み込んで、早く収束させてほしいものです。

新田の初穂や村の八幡社

平太夫の墓碑
松下平太夫の墓碑
平太夫の墓
国交省のアラート板
国交省のアラート板