俳句的生活(66)-万葉集ー

万葉集で、茅ヶ崎に最も近い歌は何かと調べてみました。当時、茅ヶ崎という地名は存在していませんから、直接的に茅ヶ崎が詠まれたものはありません。一方、茅(ちがや)は、万葉の植物と言われているだけあって、数多くの歌に詠まれています。本稿では奈良に向かおうとする東国の人が、最も茅ヶ崎に近いところを通った道で詠んだであろう歌を、取り上げてみます。

相模道(さがみじ)の余綾(よろき)の浜の真砂なす子らは愛しく思はるるかも

という第14巻3372番の、相聞の東歌です。”余綾の浜”がどこかということですが、残念ながら茅ヶ崎海岸ではなく、大磯・二宮の浜辺ということになっています。当時の武蔵の国から相模を経て駿河に至るルートは、海老名あたりで相模川をわたり、相模川右岸に沿って南下して唐ケ原(もろこしがはら)に達し、海岸を酒匂川まで行き、今度は酒匂川に沿って北上し、今の東名高速の辺りから足柄峠を目指すというものでした。従って茅ヶ崎のエリアには入って来ていないのです。このようなルートは平安末まで続くのですが、やはり相模川を下流の馬入で渡河するのは、頼朝の時代に橋が出来るまでは難しかったのだと思います。

話がずれていきますが、相模から箱根を越えるルートは、長らく足柄峠となっていました。太平記で、足利尊氏と新田義貞が最初に戦うのは、箱根竹の下でしたが、この竹の下の場所は、足柄峠です。鎌倉に依拠した足利勢を追討するために新田軍が関東に入ろうとしたのは、南北朝の時点でも足柄峠だったのです。

茅(ちがや)で身近なのは、茅の輪くぐりの夏越の大祓ではないでしょうか。茅ヶ崎では第六天神社が毎年、六月の晦日に行っています。また、南湖院を引き継いだ太陽の郷では、茅(ちがや)が丁寧に育てられています。茅(ちがや)の本場は茅ヶ崎ですから、我々も茅(ちがや)を季語とした句を沢山作っていきたいものです。

幼子を舫ひて潜る茅の輪かな

茅の輪
タウンニュース茅ヶ崎版より「第六天神社の茅の輪くぐり」