俳句的生活(65)-八王子街道ー

茅ヶ崎には、東西を貫く街道は、一国、鉄砲道、134号線、越前通り、小出中央通り、のように割と豊富ですが、南北の街道は、産業道路が出来るまでは、今宿・萩園を縦断して八王子へと続く道しかありませんでした。この道は八王子街道、別名を「魚の道」と呼ばれていました。

八王子は甲州街道の大宿場町で、多摩地方の物産の集積地でもありました。幕末に横浜が開港してからは、輸出品としての生糸を横浜へ運ぶ道が整備され、それは「絹の道」と呼ばれました。幕末から明治にかけては、この「絹の道」と「魚の道」が八王子と神奈川を結ぶ二つの大動脈だったのです。

魚を運んだ道として有名なのが、小浜と京都の出町柳とを結んだ鯖街道です。ここでは塩漬けにした鯖を1昼夜かけて、80kmの山道を、背に籠をしょって踏破していました。山の中の細い道を通るため、天秤を担ぐことが出来なかったのです。

「魚の道」は、南湖の浜で獲れた魚を八王子へ運ぶものでした。距離にして40km、鯖街道の半分です。半日で到着できました。また平地を通行するので、天秤の両端に桶を付け、肩に担ぐスタイルでした。棒手振(ボテフリ)というもので、”ぼてい”と呼ばれていました。江戸時代、ほとんどの行商人のスタイルはこの手のものでした。俳句的生活(46)で紹介した藤間柳庵の、水売りの月を片荷に帰りけり という俳句も、このスタイルの行商のものです。

「魚の道」には、極く短い距離の中に、松尾神社、三島神社、常顕寺、満福寺 と並んでいます。旧和田家もこの道沿いです。この道は、今宿・萩園のメインストリートだったのです。

三日月や棒手の空になりにけり

江戸時代の行商人
棒手振りのイラスト