俳句的生活(64)-西行法師ー

高砂通りを海の方に進むと、茅ヶ崎公園の手前に恵泉幼稚園があります。以前は恵泉第二幼稚園と呼ばれていましたが、平成に入り第一と統合して、現在の名前となりました。その門の所を右に曲がり暫く進むと、右手に文化資料館があります。現在、浄見寺の脇に移転が進められていて閉館中なのですが、入口の門柱には西行の、芝まとふ葛のしげみに妻こめて砥上ヶ原に牡鹿鳴くなり という和歌が刻まれています。

この和歌の少し前に西行は大磯で、こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮 という和歌を作っています。そう、この年(1186年)西行は、源平争乱で焼け落ちた東大寺再建の資金を、奥州平泉の藤原秀衡に依頼するために、大磯、茅ヶ崎を通り鎌倉に入り(ここでは頼朝とも会っています)、奥州へ向かったのです。

門柱に刻まれている砥上ヶ原とは、片瀬川から相模川の間の砂丘地帯のことで、将に茅ヶ崎海岸です。当時は雑草と雑木の生い茂る原野でした。西行は、現在の鉄砲道辺りを歩いて行ったのでしょう。大磯から鎌倉まで30km余り、1日で到達できたはずです。極楽寺の切通しは未だ出来ていませんから、恐らく細い道を上って鎌倉入りをしたのだと思います。それにしても、西行のような詩人に本当に資金集めが出来たのかどうか、いくら秀衡から勧請することが出来たのか、興味あるところです。

面白いことに、この文化資料館の門柱(歌碑)は、もともとは鶴嶺八幡宮の鳥居の古材だったのです。現在置かれている場所は、丁度砥上ヶ原の中ですから都合良いのですが、それを越前通りの方へ持っていかれると、多少違和感が生じます。

途の果て銀河に我の沈みゆく

恵泉幼稚園
西行の歌碑
西行の歌碑